ヨーガスートラの原文はインド古語(サンスクリット語)で、その訳文もいろいろあります。ここでは、下記の4冊の訳文を参考にしながら、読み解いていきます。

参考書籍(番号①~④が書籍と訳文の対応を示します)
①やさしく学ぶYOGA哲学 ヨーガスートラ(向井田みお著)
②解説ヨーガ・スートラ(佐保田鶴治著)
③インテグラル・ヨーガ パタンジャリのヨーガ・スートラ(スワミ・サッチダーナンダ著)
④現代人のためのヨーガ・スートラ(グレゴール・メーレ著)

【ヨーガスートラ:1章12節】

①アッビャーサ(繰り返しの練習)とヴァイラーギヤ(正しい見極め)によって、苦悩の原因となるヴルッティ(考えの動き)は、ニローダ(ケアすること)ができます。
②心のさまざまなはたらきを止滅するには、修習と離欲という二つの方法を必要とする。
③これらの心の作用は、修習(アビイアーサ)と離欲(ヴァイラーギヤ)によって止滅される。
④これらの心のはたらきの止滅は、実践と離欲によって起こる。

ポイント1
いろんな訳がありますが、原文を直訳すると「アビャーサとヴァイラーギャで、それをニローダ」という感じです。「それ」とは、マインドの働き(=心の作用)のこと。ニローダは、1章2節にも出てきている言葉で、マインドの働きの解消(=心の作用の止滅)のことです。

ポイント2
1章2節で「ヨガとは、マインドの働きを解消していくことである」として、ここでは、そのためにすべきことが二つあることを述べています。つまり「マインドの働きは、アビャーサとヴァイラーギャによって解消される」ということです。

【ヨーガスートラ:1章13節】

①(YOGAにおいて、)意図的に繰り返し努力を続けることが、アッビャーサ(繰り返しの練習)です。
②この二つの止滅法のうち、修習とは、心のはたらきの静止をめざす努力のことである。
③これら二者のうち、心に不動の状態をもたらそうとする努力が、修習(アビイアーサ)である。
④実践とは、止滅の状態にとどまるための努力である。

ポイント1
前節の「アビャーサ」と「ヴァイラーギャ」のうち、本節と次節は「アビャーサ」の説明です。本節もいろんな訳がありますが、原文に書かれているのは「そこ、とどまる努力、アビャーサ」という程度です。

ポイント2
本節はアビャーサの説明ですが、「アビャーサ」という単語自体に「繰り返し、反復、習慣」などの意味があります。つまり、マインドの働き(=心の作用)を解消するためには、ある状態にとどまる努力を繰り返し行うべきであり、それがアビャーサである、ということでしょう。

ポイント3
本節の最大のポイントは「とどまる」の部分です。原文では「sthitau(スティタウ)」という語ですが、既存の訳の多くは「スティタウ」のことを「心の作用を止滅させた状態にとどまる」という意味合いで解釈して、それを目指す努力がアビャーサであるとしています。

しかしながら、本節では、心の作用を止滅させるために必要なことを説明しているのであり、心の作用を止滅させるためには「ある状態にとどまる必要がある」とする方が自然な解釈でしょう。つまり「ある状態」とは、「心の作用を止滅させた状態」ではなく、「心の作用の止滅に必要な状態」のことでしょう。

ポイント4
心が何かを感じたとき、その感覚を我慢すると、それはいつまでも心に残ります。しかし、感覚を受け入れると、それは消えていきます。たとえば、怒りを感じたとき、その感覚を我慢して封じ込めると、その怒りはずっと残り続けます。でも、怒りを感じている自分を受け入れて、その怒りをちゃんと感じると、それは消えていきます。

このときに大切なのは、心の動きに気づいている意識です。ボディ、マインド、スピリットの観点で言えば、「マインドの働き」に気づき、それをありのまま受け入れいている「スピリット側の視点」です。このようなこと、「ヨガの道しるべ」で繰り返し解説しましたが、この「スピリット側の視点に立った状態」は、マインドの働きを解消する一番のポイントです。その状態にとどまることが出来たときに、マインドの働き(=心の作用)の解消が起こるということを知っていると、本節の言わんとすることは、自ずと理解できるでしょう。

【ヨーガスートラ:1章14節】

①アッビャーサ(繰り返しの練習)は長い時間、途切れることなく、自然にできるようになるまで、誠実な気持ちで続けることです。
②この修行を長い間、休むことなく、厳格に実践するならば、堅固な基礎ができあがるであろう。
③修習は、長い間、休みなく、大いなる真剣をもって励まれるならば、堅固な基礎を持つものとなる。
④実践は、長い間、中断することなく、心を傾けて行って初めて堅固な状態になる。

ポイント1
前節に引き続き「アビャーサ」の説明ですが、原文に書かれているのは「それ、長い時間、中断せず、心を傾け、実践、確固たる基盤」という程度です。

ポイント2
原文の主語「それ」は何を指しているのでしょうか? 既存の訳では「それ=アビャーサ」としていますが、前節における「心の作用の止滅に必要な状態」を指していると考えた方が自然な解釈になります。

その視点で、前節と本節を簡単にまとめると、このようになります。
(前節)心の作用を止滅するには、ある状態にとどまる必要があり、その取り組みがアビャーサ。
(本節)その状態は、繰り返し実践することで、確固たるものになる。

ポイント3
心の働きを消すポイントは、「スピリット側の視点に立った状態」ですが、その意識状態を保つことは簡単ではありません。「マインド側の視点」と「マインドの働きに気づいているスピリット側の視点」があり、普段の私たちは、「マインド側の視点」で日々を過ごしています。「スピリット側の視点」のことを知っていても、意識的に取り組んでいない限り、「マインド側の視点」にすぐに戻ってしまいます。

このことが分かっていると、本節が述べていることは、すごく納得がいきます。「スピリット側の視点」でいるためには、時間をかけて、中断することなく、意識を向けて、繰り返し実践することが必要。それを繰り返し行うことで、スピリット側の視点に立った状態が、確固たる境地となるのでしょう。



【ここまでのまとめ(ボディ、マインド、スピリットの視点での訳)】

1章1節:これから、ヨガの解説をする。

1章2節:ヨガとは、マインドの働き(=心の作用)を解消することである。

1章3節:それができると、スピリットが本来の状態になる。

1章4節:普段は、スピリットとマインドが一体化して、区別がつかなくなっている。

1章5節:マインドの働きには、5種類あり、それらは人を悩み苦しませたり、そうでなかったりする。

1章6節:マインドの5つの働きとは「①正しい認識、②誤った認識、③言葉による概念や想像(ヴィカルパ)、④放心状態(ニドラー)、⑤感覚の保持(スムリティ)」である。

1章7節:正しい認識には「①自分の経験に基づき、その経験から直接分かったこと、②経験から類推して分かったこと、③経験に基づいたものではなく、本などから学んだこと」の3種類がある。

1章8節:誤った認識とは、何かを誤って解釈したことによる、正しくない理解である。

1章9節:実際には存在していなくても、言葉で理解して想像する。それがヴィカルパ(言葉による概念や想像)である。

1章10節:ニドラー(放心状態)は、何かに依存していて、想念が生まれない状態である。

1章11節:スムリティ(感覚の保持)は、何かを経験して感じたことが、消えることなく残存することである。

1章12節:マインドの働き(=心の作用)は、アビャーサとヴァイラーギャによって解消される。

1章13節:アビャーサは、ある状態にとどまろうとする取り組みを、繰り返し行うことである。

1章14節:その状態は、時間をかけて、中断することなく、意識を向けて、繰り返し実践することで、確固たる境地となる。