前話で「ありのままを受け入れることで成長が促される」と書きましたが、そもそも「成長」とはどういうことなのでしょう?

仏教的な表現で言えば「梵我一如」に近づいていくこと。それが「魂の成長」です。

「梵」は、あらゆるもの全て(神的存在)であり、ヨガの表現で言えばブラフマン。「我」は個々の人間に宿る魂的存在であり、ヨガの表現で言えばアートマン。私たちは、それらを別々のように感じているけれど、実はそれらは同一のものであり、個々の人間すべてが神と同じ存在。そのことを頭での理解ではなく、本当の意味で知覚した状態。それが梵我一如であり、私たちの魂は、そこに向かって成長しているのです。

現在のヨガは、美容や健康のための体操として広まっているけれど、もともとは梵我一如に向かう成長を、意識的に促す取り組み。それが本来のヨガなのです。

ところで、何かになりたければ、すでに自分がそうなっているかのように振る舞えばいい。これは自己実現の方法として、よく知られていることで、いろいろな分野で実践している人がたくさんいます。

たとえば、幸せになりたければ、幸せならどう振る舞うかを考え、今すぐそのように振る舞えばいい。そうすれば、自ずと幸せになっていく。あるいは、平社員が課長になりたければ、課長ならどう仕事をするかを考えて、今すぐそのように仕事をすればいい。そうすれば、速やかに課長に昇進するでしょう。

何かになりたければ、そこに向かって努力するのではなく、すでに、そうなっているものとして生きること。別の言い方をすれば、私たち人間には、どんな存在でいるかを選ぶ力があり、その力を活用することで、新たな自分のあり方を速やかに創り上げる力があるのです。

したがって、梵我一如を目指すのなら、今すぐに神と自分が一体であるかのように振る舞えばいいということになります。

では、神とはどんな存在でしょう? 

もちろん、神についての考え方は、思想背景や宗教観などによって、いろいろあるでしょう。でも、スピリチュアルな視点を持ってヨガに取り組んでいる人ならば、神の特質の一つが「100%の無償の愛」にあることを理解しているでしょう。

それに最も近いと言われるのが、母親の子供に対する愛情。子供がどんなに失敗しても、子供の成長を信じて、そばにいて見守り続ける母の愛。それが出来るのは、母親が子供との繋がりや一体感をしっかりと感じているから。子供のありのままを受け入れる母親の愛は、100%の無償の愛そのものであり、それは神の愛に最も近いあり方です。

100%の無償の愛で、ありのままを受け入れ、その成長を信じて見守る。そのような愛情は、神の特質の現れであり、梵我一如を目指すのなら、そのような愛にあふれた存在として行動すればいいのです。つまり、ありのままを受け入れるように日々を過ごしていると、私たちの魂は、自ずと梵我一如に向かって成長していくのです。

すべてをありのまま受け入れる。共感しながら、ただ見守る。そこにある想いや感覚にちゃんと気づいていながら、でもそれらをコントロールしようとせずに、そのままを見守る。そんな無償の愛に満ちた存在でいようとすることは、梵我一如というヨガのゴールに向かう意識的な取り組みなのです。

まだまだ明確に意識している人は少数派かもしれないけれど、私たちの魂の本質は、いつも梵我一如を求めています。いつも、そこに向かって成長したがっています。そして、ヨガには、そのような魂の本質的な欲求を満たす要素が含まれているのです。

今はまだ、ただの健康美容体操としてヨガをしている人が多数派かもしれません。でもこれからの時代は、ヨガの本質を理解し、魂の成長のためにヨガを実践する人たちがどんどん増えてくるでしょう。そしていずれは、本当に梵我一如に目覚めた人たちが現れることでしょう。ヨガの世界的な広がりを見ていると、そんな未来がだんだんと近づいているのを感じ、ヨガの将来がますます楽しみになってきます。