ヨーガスートラの原文はインド古語(サンスクリット語)で、その訳文もいろいろあります。ここでは、下記の4冊の訳文を参考にしながら、読み解いていきます。

参考書籍(番号①~④が書籍と訳文の対応を示します)
①やさしく学ぶYOGA哲学 ヨーガスートラ(向井田みお著)
②解説ヨーガ・スートラ(佐保田鶴治著)
③インテグラル・ヨーガ パタンジャリのヨーガ・スートラ(スワミ・サッチダーナンダ著)
④現代人のためのヨーガ・スートラ(グレゴール・メーレ著)

【ヨーガスートラ:1章46節】

①これら(4段階の瞑想)は、サビージャ・サマーディ(苦悩の原因がまだある段階の瞑想)と呼ばれます。

②以上が有種子三昧である。

③以上がサビージャ・サマーディ(有種子三昧)であり、そこにはまだ修行者を束縛や心的動揺に引き戻す可能性が残っている。

④これらすべてが種子のあるサマーディである。

原文:
 ター・エーヴァ・サビージャハ・サマーディヒ

語句の意味:

 ター:それらは、

 エーヴァ:まさしく、このように、実に など

 サビージャハ:「サ:伴う」+「ビージャ:種子、源泉、あらゆる現象を産み出すタネのごときもの」

 サマーディヒ:組み合わさること、一体になること、結合、深い瞑想状態、三昧 など

ポイント1
本節は「ビージャ」をどう解釈するかが難しいところですが、意訳することなく、本文をそのまま訳すと、下記のようになります。

『それらはまさしく、ビージャ(あらゆる現象を産み出すタネのごときもの)を伴ってのサマーディ(三昧)である。』

ポイント2
41節から45節までの内容を簡単にまとめると、【心の乱れ(チッタ・ブリッティ)が無くなったとき、知覚する者、知覚すること、知覚される物が混ざり合い、一体になっていく。そして、ヴィタルカ(身体的感覚)やヴィチャーラ(心的感覚)がなくなり、無の状態(アリンガ)になっていく】ということ。

その内容を受けて、本節では「それらはまさしく、ビージャ(あらゆる現象を産み出すタネのごときもの)を伴ってのサマーディ(三昧)である。」と述べています。

ポイント3
ビージャは「種子、源泉、あらゆる現象を産み出すタネのごときもの」であり、私たちが通常認識している現実世界に新たなるもの(苦悩、束縛、心的動揺などに限らず、カルマやサンスカーラなども含むあらゆるもの)を生み出す種のようなもの。本節では、心の浄化の結果として、ビージャを伴うサマディ(サビージャ・サマーディ)に至ると述べています。

ポイント4
ヨーガスートラの第1章は「samaadhi paada サマーディの章」であり、サマーディに至る道筋が書かれていますが、ここに来てやっと本命のサマーディが出てきました。本節では、ビージャを伴うサマーディ(サビージャ・サマーディ)を挙げていますが、第1章の最終節(51節)では、ビージャを伴わないサマーディ(ニルビージャ・サマーディ)が出てきて、それがヨガのゴールということになります。

ポイント5
サビージャ・サマーディ(有種子三昧)と、ニルビージャ・サマーディ(無種子三昧)については、いろんな解釈や考え方がありますが、私自身は次のように理解しています。

自分の力で、心の浄化を進めていったときにたどり着くのが、サビージャ・サマーディ(有種子三昧)。その段階ではまだビージャ(現実世界に新たなるものを生み出す種のようなもの)が残っているが、サビージャ・サマーディに至ることで、神的な存在の力を積極的に活かせるようになる。そのような神的な力を借りて、更に浄化を進めたときにたどり着くのが、ニルビージャ・サマーディ(無種子三昧)であり、それこそがヨガのゴールということ。次節以降では、この辺りのことが説明されていきます。

【ここまでのまとめ(ボディ、マインド、スピリットの視点での訳)】

1章1節:これから、ヨガの解説をする。

1章2節:ヨガとは、マインドの働き(=心の作用)を解消することである。

1章3節:それができると、スピリットが本来の状態になる。

1章4節:普段は、スピリットとマインドが一体化して、区別がつかなくなっている。

1章5節:マインドの働きには、5種類あり、それらは人を悩み苦しませたり、そうでなかったりする。

1章6節:マインドの5つの働きとは「①正しい認識、②誤った認識、③言葉による概念や想像(ヴィカルパ)、④放心状態(ニドラー)、⑤感覚の保持(スムリティ)」である。

1章7節:正しい認識には「①自分の経験に基づき、その経験から直接分かったこと、②経験から類推して分かったこと、③経験に基づいたものではなく、本などから学んだこと」の3種類がある。

1章8節:誤った認識とは、何かを誤って解釈したことによる、正しくない理解である。

1章9節:実際には存在していなくても、言葉で理解して想像する。それがヴィカルパ(言葉による概念や想像)である。

1章10節:ニドラー(放心状態)は、何かに依存していて、想念が生まれない状態である。

1章11節:スムリティ(感覚の保持)は、何かを経験して感じたことが、消えることなく残存することである。

1章12節:マインドの働き(=心の作用)は、アビャーサとヴァイラーギャによって解消される。

1章13節:アビャーサは、ある状態にとどまろうとする取り組みを、繰り返し行うことである。

1章14節:その状態は、時間をかけて、中断することなく、意識を向けて、繰り返し実践することで、確固たる境地となる。

1章15節:自ら経験したことに対して、あるいは、自らは経験せずに伝え聞いたりしたことに対して、何かをしたいという欲求を克服して、対象をありのまま受け入れる。そのような意識がヴァイラーギャである。

1章16節:最高のヴァイラーギャは、純粋なる意識(プルシャあるいはスピリット)の視点であり、その視点に至れば、物質世界でのもろもろの事象(グナ)にとらわれなくなる。

1章17節:身体的感覚に関すること、心的感覚に関すること、究極の幸せの境地に関すること、自我の意識に関すること、それらを知ることで、完全なる理解に至る。

1章18節:あとは、想念を終わらせることを繰り返し行う。それは以前から存在しているサンスカーラの残りである。

1章19節:想念が生まれるのは、霊的な存在と、物質的な要素とが結合することによる。

1章20節:何かをしたいと思って、何か新たな行動をすると、それがこれまでの記憶や経験と結びついて、以前とは異なる新たな想念となる。

1章21節:獲得された想念により、とても強い思いで、さらに何かをしたくなる。

1章22節:想念とは異なるものがある。それは、穏やかなリラックスした状態、かつ、とらわれることのない中立な状態で、想念を超えたところにある。

1章23節:それはまた、イーシュヴァラ(全てを司る神的な聖なる存在)にすべてを委ねるということでもある。

1章24節:何らかの思考(クレーシャ)が生じる。何らかの行為(カルマ)をする。それらの結果(ヴィパーカ)が生じる。それがまた新たな思考や行為の原因(アーシャヤイル)となる。そのような事柄に影響を受けないものがあり、それがプルシャ(意識の源・真我)である。プルシャは、イーシュヴァラ(全てを司る神的な聖なる存在)が特別な形で現れたものである。

1章25節:そこ(プルシャ)は、最上の全ての知の源泉である。

1章26節:それ(プルシャ)は、太古からもともと存在している。それはまた、知を授ける存在であり、時間によって制約されることがない。

1章27節:それ(プルシャ)は、言わば「命をもたらすもの」である。

1章28節:それを繰り返し唱え、その働きについて想像し熟慮せよ。

1章29節:それにより、知性の中心へと到達し、同時に、障害となるものは無くなっていく。

1章30節:病を患っている状態、無関心にただ反応しているだけの状態、何かを疑っている状態、意識が散漫で不注意な状態、やる気がなく怠惰な状態、不摂生で自制できない状態、誤った観念で混乱している状態。それらは、基盤となるものがなく、不安定な状態のときに見られる。それはチッタ(心・マインド)の動揺によるものであり、それが障害である。

1章31節:心に生じる苦悩や失意、肉体的に不安定な状態は、呼吸の乱れと共に生じる。

1章32節:それを防ぐために、唯一の真理にとどまる取り組みを繰り返し行う。

1章33節:衆生の楽を望む慈しみの心。衆生の苦を抜いてあげたいと思う憐れみの心。衆生の喜ばしい状態を共に喜ぶ心。差別や執着を捨て、すべてを平等に観る心。それらは、安楽、苦痛、善行、悪行に、それぞれ対応する。それらを念想することで、チッタ(心・マインド)は清浄になっていく。

1章34節:(チッタの乱れを解消するには)息を吐く、止めて保つ、そのように呼吸。

1章35節:(チッタの乱れを解消するには)生成され、存在している、心の反応に対して、安定した不動の状態にとどまりつつ、意識を向ける。

1章36節:(チッタの乱れを解消するには)悲しみや苦悩から離れよ。そして、自己の内にある輝かしい知性を働かせよ。

1章37節:(チッタの乱れを解消するには)チッタを、欲求の対象から離れるようにする。

1章38節:夢を見ているとき、放心状態のとき、そこに滞留していることに気づくことによって(チッタの乱れを解消できる)

1章39節:さらにまた、適切になされた瞑想によっても(チッタの乱れを解消できる)

1章40節:(チッタの乱れに関して)最も些細なことから、最も大きなことまで、極限まで、これを克服していく。

1章41節:心の乱れ(チッタ・ブリッティ)が静まってくると、本来の状態になっていく。それは宝珠のごとき素晴らしきもの。知覚する者、知覚すること、知覚される物。それらの動きは止まり、それらは出会い混ざり合っていく。それがサマーパッティである。

1章42節:サマーパッティにおいて、ヴィカルパ(言葉による概念や想像)は、ヴィタルカ(身体的感覚)を伴って、混ざり合っていく。

1章43節:スムリティ(保持されていた感覚)が完全に浄化されると、本来の空の状態になる。あたかも、事物・対象のすべてが、ただ光り輝いているようになる。それはヴィタルカ(身体的感覚)がなくなった状態、すなわちニルヴィタルカである。

1章44節:ヴィチャーラ(微細な感覚、心的感覚)を伴うときも同様であり、ニルヴィチャーラ(ヴィチャーラがなくなった状態)となる。そして、微細な感覚の領域に関することが解き明かされる。

1章45節:微細な感覚の領域、それもまた一切の区別や差異がない無の状態(アリンガ)へと至る。

1章46節:それらはまさしく、ビージャ(あらゆる現象を産み出すタネのごときもの)を伴ってのサマーディ(三昧)である。