ヨーガスートラの原文はインド古語(サンスクリット語)で、その訳文もいろいろあります。ここでは、下記の4冊の訳文を参考にしながら、読み解いていきます。

参考書籍(番号①~④が書籍と訳文の対応を示します)
①やさしく学ぶYOGA哲学 ヨーガスートラ(向井田みお著)
②解説ヨーガ・スートラ(佐保田鶴治著)
③インテグラル・ヨーガ パタンジャリのヨーガ・スートラ(スワミ・サッチダーナンダ著)
④現代人のためのヨーガ・スートラ(グレゴール・メーレ著)

【ヨーガスートラ:1章38節】

①夢と熟睡(どちらにも存在する)自分自身を知ることによって、心の静けさは可能になります。

②あるいは、夢や熟睡で得た体験を対象とする心もまた静澄をもたらす。

③あるいは、夢や深い眠りの中で得られる体験に集中することによって。

④夢の対象や夢を見ない睡眠の状態を瞑想することによっても、心は安定する。


原文:

スヴァプナ・ニドラー・ジュニャーナ・アーラムバナム・ヴァー

語句の意味:

スヴァプナ:夢、妄想 など

ニドラー:睡眠、眠い状態、怠惰 など

ジュニャーナ:知ること、気づくこと、理解すること、学び、知識、智恵 など

アーラムバナム:依存、支持、寄りかかること、滞在、滞留 など

ヴァー:また、もしくは、そして、または、のように など

ポイント1

従来の訳では、ニドラーは熟睡状態のことと解釈して、本節は「夢や熟睡の状態で得られる体験に意識を向けることで心が静まる」というように訳しています。

しかしながら、「ニドラー」は1章6節にあるように、解消すべき心の働き(チッタ・ブリッティ)のうちの一つです。そのため、ここでは1章10節で述べたように、ニドラーは熟睡状態ではなく、「我を忘れて、パチンコやゲームに夢中になっているとき」や「ぼーっとしているとき」のような「放心状態」を指していると解釈していきます。

ポイント2

スヴァプナは、夢を意味する言葉ですが、眠っているときの夢だけなく、目覚めているときの妄想や白昼夢などを指す場合もあります。本節のスヴァプナが、眠っているときの夢だけを指すのか、妄想や白昼夢なども含むのかは、はっきりしません。とりあえずここでは、「夢を見ているとき」と訳すことにします。

ポイント3

夢を見ているときや、放心状態のとき、私たちは自分がそのような状態になっていることに気づいていません。気づいていないから、その状態にとどまってしまうのです。そんなとき、自分の状態に気づくだけで、状態に変化が起こります。例えば、ぼーっとしてる自分に気づき、はっと我に返るような体験、誰にでもあるでしょう。

夢の場合も同じです。普通の夢では、自分が夢を見ていることに気づいていません。でも、夢の中で、それが夢であることを自覚する場合があります。そのような夢を明晰夢といいますが、明晰夢では、夢をコントロールして、夢の状況を自分の思い通りに変化させたりすることが可能になったりします。

ポイント4

勝手気ままに振る舞う心。そんな心の手綱を取り戻して、ちゃんと制御できるようにする。そのためには、心が何をしているのか、何にとらわれているのか、そのようなことに気づくことがポイントです。特に、夢を見ているときや、放心状態のときは、心が何かに囚われて、そこに留まっているような状態です。その状態に気づくことで、そのような滞留状態から抜け出して、心の働きを制御できるようになります。

以上のことを踏まえて、本節を訳すと以下のようになります。

夢を見ているとき、放心状態のとき、そこに滞留していることに気づくことによって(チッタの乱れを解消できる)

【ここまでのまとめ(ボディ、マインド、スピリットの視点での訳)】

1章1節:これから、ヨガの解説をする。

1章2節:ヨガとは、マインドの働き(=心の作用)を解消することである。

1章3節:それができると、スピリットが本来の状態になる。

1章4節:普段は、スピリットとマインドが一体化して、区別がつかなくなっている。

1章5節:マインドの働きには、5種類あり、それらは人を悩み苦しませたり、そうでなかったりする。

1章6節:マインドの5つの働きとは「①正しい認識、②誤った認識、③言葉による概念や想像(ヴィカルパ)、④放心状態(ニドラー)、⑤感覚の保持(スムリティ)」である。

1章7節:正しい認識には「①自分の経験に基づき、その経験から直接分かったこと、②経験から類推して分かったこと、③経験に基づいたものではなく、本などから学んだこと」の3種類がある。

1章8節:誤った認識とは、何かを誤って解釈したことによる、正しくない理解である。

1章9節:実際には存在していなくても、言葉で理解して想像する。それがヴィカルパ(言葉による概念や想像)である。

1章10節:ニドラー(放心状態)は、何かに依存していて、想念が生まれない状態である。

1章11節:スムリティ(感覚の保持)は、何かを経験して感じたことが、消えることなく残存することである。

1章12節:マインドの働き(=心の作用)は、アビャーサとヴァイラーギャによって解消される。

1章13節:アビャーサは、ある状態にとどまろうとする取り組みを、繰り返し行うことである。

1章14節:その状態は、時間をかけて、中断することなく、意識を向けて、繰り返し実践することで、確固たる境地となる。

1章15節:自ら経験したことに対して、あるいは、自らは経験せずに伝え聞いたりしたことに対して、何かをしたいという欲求を克服して、対象をありのまま受け入れる。そのような意識がヴァイラーギャである。

1章16節:最高のヴァイラーギャは、純粋なる意識(プルシャあるいはスピリット)の視点であり、その視点に至れば、物質世界でのもろもろの事象(グナ)にとらわれなくなる。

1章17節:身体的感覚に関すること、心的感覚に関すること、究極の幸せの境地に関すること、自我の意識に関すること、それらを知ることで、完全なる理解に至る。

1章18節:あとは、想念を終わらせることを繰り返し行う。それは以前から存在しているサンスカーラの残りである。

1章19節:想念が生まれるのは、霊的な存在と、物質的な要素とが結合することによる。

1章20節:何かをしたいと思って、何か新たな行動をすると、それがこれまでの記憶や経験と結びついて、以前とは異なる新たな想念となる。

1章21節:獲得された想念により、とても強い思いで、さらに何かをしたくなる。

1章22節:想念とは異なるものがある。それは、穏やかなリラックスした状態、かつ、とらわれることのない中立な状態で、想念を超えたところにある。

1章23節:それはまた、イーシュヴァラ(全てを司る神的な聖なる存在)にすべてを委ねるということでもある。

1章24節:何らかの思考(クレーシャ)が生じる。何らかの行為(カルマ)をする。それらの結果(ヴィパーカ)が生じる。それがまた新たな思考や行為の原因(アーシャヤイル)となる。そのような事柄に影響を受けないものがあり、それがプルシャ(意識の源・真我)である。プルシャは、イーシュヴァラ(全てを司る神的な聖なる存在)が特別な形で現れたものである。

1章25節:そこ(プルシャ)は、最上の全ての知の源泉である。

1章26節:それ(プルシャ)は、太古からもともと存在している。それはまた、知を授ける存在であり、時間によって制約されることがない。

1章27節:それ(プルシャ)は、言わば「命をもたらすもの」である。

1章28節:それを繰り返し唱え、その働きについて想像し熟慮せよ。

1章29節:それにより、知性の中心へと到達し、同時に、障害となるものは無くなっていく。

1章30節:病を患っている状態、無関心にただ反応しているだけの状態、何かを疑っている状態、意識が散漫で不注意な状態、やる気がなく怠惰な状態、不摂生で自制できない状態、誤った観念で混乱している状態。それらは、基盤となるものがなく、不安定な状態のときに見られる。それはチッタ(心・マインド)の動揺によるものであり、それが障害である。

1章31節:心に生じる苦悩や失意、肉体的に不安定な状態は、呼吸の乱れと共に生じる。

1章32節:それを防ぐために、唯一の真理にとどまる取り組みを繰り返し行う。

1章33節:衆生の楽を望む慈しみの心。衆生の苦を抜いてあげたいと思う憐れみの心。衆生の喜ばしい状態を共に喜ぶ心。差別や執着を捨て、すべてを平等に観る心。それらは、安楽、苦痛、善行、悪行に、それぞれ対応する。それらを念想することで、チッタ(心・マインド)は清浄になっていく。

1章34節:(チッタの乱れを解消するには)息を吐く、止めて保つ、そのように呼吸。

1章35節:(チッタの乱れを解消するには)生成され、存在している、心の反応に対して、安定した不動の状態にとどまりつつ、意識を向ける。

1章36節:(チッタの乱れを解消するには)悲しみや苦悩から離れよ。そして、自己の内にある輝かしい知性を働かせよ。

1章37節:(チッタの乱れを解消するには)チッタを、欲求の対象から離れるようにする。

1章38節:夢を見ているとき、放心状態のとき、そこに滞留していることに気づくことによって(チッタの乱れを解消できる)