ヨーガスートラの原文はインド古語(サンスクリット語)で、その訳文もいろいろあります。ここでは、下記の4冊の訳文を参考にしながら、読み解いていきます。

参考書籍(番号①~④が書籍と訳文の対応を示します)
①やさしく学ぶYOGA哲学 ヨーガスートラ(向井田みお著)
②解説ヨーガ・スートラ(佐保田鶴治著)
③インテグラル・ヨーガ パタンジャリのヨーガ・スートラ(スワミ・サッチダーナンダ著)
④現代人のためのヨーガ・スートラ(グレゴール・メーレ著)

【ヨーガスートラ:1章39節】

①心ひかれる対象に瞑想することによってもまた、心は澄みきった状態になります。

②あるいは、なんでも自分の好むものを瞑想することからも、心の清澄は生ずる。

③あるいは、何でも心を高揚させるようなものを選び、それに瞑想することによって。

④適切ないかなる対象を瞑想することによっても、心は安定する。

原文:
ヤター・アビマタ・ディヤーナード・ヴァー

語句の意味:
ヤター:さらに、~に加えて、あたかも~のように、それゆえ など

アビマタ:適切になされた、熱望された、願わしい、是認された、許容された など

ディヤーナード:瞑想、思考、熟慮 など

ヴァー:また、もしくは、そして、または、のように など

ポイント1
1章33節~38節まで、チッタ(心・マインド)の乱れを解消し清浄にする方法について説明してきました。本節は、そのシリーズの最後の締めであり、ヨガの本命のメソッドである瞑想がでてきます。

ポイント2
従来の訳で気になるのは、アビマタのところ。従来は「~を対象にディヤーナード」というように訳して、アビマタを名詞のように扱っています。しかしアビマタは受動分詞であり、しかも原文に「~を対象に」という意味合いの語句はありません。従来の訳にとらわれずに、アビマタ・ディヤーナードのところを、そのまま逐語的に訳すと「適切になされた瞑想」という程度の意味合いになります。

ポイント3
瞑想はヨガの本命のメソッドで、ヨーガスートラは瞑想ヨガの実践書とも言うべきもの。2章以降、瞑想の方法論が語られます。1章で言及しているのは、そのような2章を理解する上で前提となる知識(チッタの性質、ヨガが成すべきこと、ヨガによって成されること、など)です。

そのようなヨーガスートラの全体構成からすると、本節において瞑想の対象についてまで言及するのは、とても違和感があります。従来の訳だと、本節の主題が瞑想の「対象」になってしまっていますが、ディヤーナ(瞑想)という語は本節が初登場であり、ここでの主題は「瞑想」そのものと解釈した方が、ヨーガスートラの全体構成からしても無理がありません。

以上のことを踏まえて、本節を素直に訳すと以下のようになります。

『さらにまた、適切になされた瞑想によっても(チッタの乱れを解消できる)』

【ここまでのまとめ(ボディ、マインド、スピリットの視点での訳)】

1章1節:これから、ヨガの解説をする。

1章2節:ヨガとは、マインドの働き(=心の作用)を解消することである。

1章3節:それができると、スピリットが本来の状態になる。

1章4節:普段は、スピリットとマインドが一体化して、区別がつかなくなっている。

1章5節:マインドの働きには、5種類あり、それらは人を悩み苦しませたり、そうでなかったりする。

1章6節:マインドの5つの働きとは「①正しい認識、②誤った認識、③言葉による概念や想像(ヴィカルパ)、④放心状態(ニドラー)、⑤感覚の保持(スムリティ)」である。

1章7節:正しい認識には「①自分の経験に基づき、その経験から直接分かったこと、②経験から類推して分かったこと、③経験に基づいたものではなく、本などから学んだこと」の3種類がある。

1章8節:誤った認識とは、何かを誤って解釈したことによる、正しくない理解である。

1章9節:実際には存在していなくても、言葉で理解して想像する。それがヴィカルパ(言葉による概念や想像)である。

1章10節:ニドラー(放心状態)は、何かに依存していて、想念が生まれない状態である。

1章11節:スムリティ(感覚の保持)は、何かを経験して感じたことが、消えることなく残存することである。

1章12節:マインドの働き(=心の作用)は、アビャーサとヴァイラーギャによって解消される。

1章13節:アビャーサは、ある状態にとどまろうとする取り組みを、繰り返し行うことである。

1章14節:その状態は、時間をかけて、中断することなく、意識を向けて、繰り返し実践することで、確固たる境地となる。

1章15節:自ら経験したことに対して、あるいは、自らは経験せずに伝え聞いたりしたことに対して、何かをしたいという欲求を克服して、対象をありのまま受け入れる。そのような意識がヴァイラーギャである。

1章16節:最高のヴァイラーギャは、純粋なる意識(プルシャあるいはスピリット)の視点であり、その視点に至れば、物質世界でのもろもろの事象(グナ)にとらわれなくなる。

1章17節:身体的感覚に関すること、心的感覚に関すること、究極の幸せの境地に関すること、自我の意識に関すること、それらを知ることで、完全なる理解に至る。

1章18節:あとは、想念を終わらせることを繰り返し行う。それは以前から存在しているサンスカーラの残りである。

1章19節:想念が生まれるのは、霊的な存在と、物質的な要素とが結合することによる。

1章20節:何かをしたいと思って、何か新たな行動をすると、それがこれまでの記憶や経験と結びついて、以前とは異なる新たな想念となる。

1章21節:獲得された想念により、とても強い思いで、さらに何かをしたくなる。

1章22節:想念とは異なるものがある。それは、穏やかなリラックスした状態、かつ、とらわれることのない中立な状態で、想念を超えたところにある。

1章23節:それはまた、イーシュヴァラ(全てを司る神的な聖なる存在)にすべてを委ねるということでもある。

1章24節:何らかの思考(クレーシャ)が生じる。何らかの行為(カルマ)をする。それらの結果(ヴィパーカ)が生じる。それがまた新たな思考や行為の原因(アーシャヤイル)となる。そのような事柄に影響を受けないものがあり、それがプルシャ(意識の源・真我)である。プルシャは、イーシュヴァラ(全てを司る神的な聖なる存在)が特別な形で現れたものである。

1章25節:そこ(プルシャ)は、最上の全ての知の源泉である。

1章26節:それ(プルシャ)は、太古からもともと存在している。それはまた、知を授ける存在であり、時間によって制約されることがない。

1章27節:それ(プルシャ)は、言わば「命をもたらすもの」である。

1章28節:それを繰り返し唱え、その働きについて想像し熟慮せよ。

1章29節:それにより、知性の中心へと到達し、同時に、障害となるものは無くなっていく。

1章30節:病を患っている状態、無関心にただ反応しているだけの状態、何かを疑っている状態、意識が散漫で不注意な状態、やる気がなく怠惰な状態、不摂生で自制できない状態、誤った観念で混乱している状態。それらは、基盤となるものがなく、不安定な状態のときに見られる。それはチッタ(心・マインド)の動揺によるものであり、それが障害である。

1章31節:心に生じる苦悩や失意、肉体的に不安定な状態は、呼吸の乱れと共に生じる。

1章32節:それを防ぐために、唯一の真理にとどまる取り組みを繰り返し行う。

1章33節:衆生の楽を望む慈しみの心。衆生の苦を抜いてあげたいと思う憐れみの心。衆生の喜ばしい状態を共に喜ぶ心。差別や執着を捨て、すべてを平等に観る心。それらは、安楽、苦痛、善行、悪行に、それぞれ対応する。それらを念想することで、チッタ(心・マインド)は清浄になっていく。

1章34節:(チッタの乱れを解消するには)息を吐く、止めて保つ、そのように呼吸。

1章35節:(チッタの乱れを解消するには)生成され、存在している、心の反応に対して、安定した不動の状態にとどまりつつ、意識を向ける。

1章36節:(チッタの乱れを解消するには)悲しみや苦悩から離れよ。そして、自己の内にある輝かしい知性を働かせよ。

1章37節:(チッタの乱れを解消するには)チッタを、欲求の対象から離れるようにする。

1章38節:夢を見ているとき、放心状態のとき、そこに滞留していることに気づくことによって(チッタの乱れを解消できる)

1章39節:さらにまた、適切になされた瞑想によっても(チッタの乱れを解消できる)