ヨーガスートラの原文はインド古語(サンスクリット語)で、その訳文もいろいろあります。ここでは、下記の4冊の訳文を参考にしながら、読み解いていきます。

参考書籍(番号①~④が書籍と訳文の対応を示します)
①やさしく学ぶYOGA哲学 ヨーガスートラ(向井田みお著)
②解説ヨーガ・スートラ(佐保田鶴治著)
③インテグラル・ヨーガ パタンジャリのヨーガ・スートラ(スワミ・サッチダーナンダ著)
④現代人のためのヨーガ・スートラ(グレゴール・メーレ著)

【ヨーガスートラ:1章31節】

① (1)心の苦しみ (2)落ち込み (3)体の動揺 (4)吸う息吐く息が不安定になることが、同時に起こります。

②苦悩、不満、手足のふるえ、あらい息づかい等が心の散動状態に伴っておこる。

③心の散動に随伴して起きるものに、苦悩、失意、身体の震え、乱れた呼吸がある。

④障害によって、苦悩、失望、体の不安定さ、呼気と吸気の乱れが生じる。

ポイント1

原文をカタカナで書くと「ドゥフカ・ダウルマナスヤ・アンガム・エージャヤトヴァ・シュヴァーサ・プラシュヴァーサ・ヴィクシェーパ・サハブヴァハ」です。

それぞれの語句の意味は下記の通り。

ドゥフカ:苦悩、精神的な苦痛、
ダウルマナスヤ:失意、落胆、悲哀 憂鬱、絶望

アンガム:肉体
エージャヤトヴァ:不安定な状態、動揺している

シュヴァーサ:息を吐くこと
プラシュヴァーサ:息を吸うこと

ヴィクシェーパ:乱れた状態、動揺、あちこち動き回ること

サハブヴァハ:一緒に存在する、同時に起こる、共に生じる

ポイント2

前節の「チッタ・ヴィクシェーパ(心の動揺)」を受けて、本節では、その「ヴィクシェーパ」に伴って起こる4つのことを説明している、というのが従来の解釈です。そして、その一つとして、呼吸の乱れが挙げられています。

しかしながら、本節の「ヴィクシェーパ」が前節の「チッタ・ヴィクシェーパ」を指していると解釈すると、本節には呼吸の乱れを現す語がないことになります。

「呼吸の乱れ」について述べているのであれば、「シュヴァーサ(吐く息)・プラシュヴァーサ(吸う息)・ヴィクシェーパ(乱れた状態、動揺)」のところが「呼吸の乱れ」を表していると解釈すべきでしょう。

つまり、本節の「ヴィクシェーパ」は、前節の「チッタ・ヴィクシェーパ(心の動揺)」ではなく、「呼吸の乱れ」を指していて、本節では、それに伴って起こることを説明していることになります。すると、本節は以下のような解釈になります。

「心に生じる苦悩や失意、肉体的に不安定な状態は、呼吸の乱れと共に生じる。」

ポイント3

従来の解釈だと、本節は前節と似たようなことを繰り返し書いていることになります。前節とは別に、わざわざ本節を書いた意図がわかりません。そのような書き方は、重要なポイントを簡潔に記しているヨーガスートラらしくないと感じます。

一方、「心に生じる苦悩や失意、肉体的に不安定な状態は、呼吸の乱れと共に生じる」と解釈した場合、本節の主人公は「呼吸」となり、前節とは全然異なる内容になります。

本節は、ヨーガスートラの中で初めて呼吸について言及しているところ。ヨガをたしなむ人であれば、呼吸がとても大切であることは誰でも知っているでしょう。本節で言わんとしているのは「呼吸に関することである」と解釈すると、前節も本節も、それぞれ重要なポイントが、重複することなく簡潔に記されていることが分かります。

【ここまでのまとめ(ボディ、マインド、スピリットの視点での訳)】

1章1節:これから、ヨガの解説をする。

1章2節:ヨガとは、マインドの働き(=心の作用)を解消することである。

1章3節:それができると、スピリットが本来の状態になる。

1章4節:普段は、スピリットとマインドが一体化して、区別がつかなくなっている。

1章5節:マインドの働きには、5種類あり、それらは人を悩み苦しませたり、そうでなかったりする。

1章6節:マインドの5つの働きとは「①正しい認識、②誤った認識、③言葉による概念や想像(ヴィカルパ)、④放心状態(ニドラー)、⑤感覚の保持(スムリティ)」である。

1章7節:正しい認識には「①自分の経験に基づき、その経験から直接分かったこと、②経験から類推して分かったこと、③経験に基づいたものではなく、本などから学んだこと」の3種類がある。

1章8節:誤った認識とは、何かを誤って解釈したことによる、正しくない理解である。

1章9節:実際には存在していなくても、言葉で理解して想像する。それがヴィカルパ(言葉による概念や想像)である。

1章10節:ニドラー(放心状態)は、何かに依存していて、想念が生まれない状態である。

1章11節:スムリティ(感覚の保持)は、何かを経験して感じたことが、消えることなく残存することである。

1章12節:マインドの働き(=心の作用)は、アビャーサとヴァイラーギャによって解消される。

1章13節:アビャーサは、ある状態にとどまろうとする取り組みを、繰り返し行うことである。

1章14節:その状態は、時間をかけて、中断することなく、意識を向けて、繰り返し実践することで、確固たる境地となる。

1章15節:自ら経験したことに対して、あるいは、自らは経験せずに伝え聞いたりしたことに対して、何かをしたいという欲求を克服して、対象をありのまま受け入れる。そのような意識がヴァイラーギャである。

1章16節:最高のヴァイラーギャは、純粋なる意識(プルシャあるいはスピリット)の視点であり、その視点に至れば、物質世界でのもろもろの事象(グナ)にとらわれなくなる。

1章17節:身体的感覚に関すること、心的感覚に関すること、究極の幸せの境地に関すること、自我の意識に関すること、それらを知ることで、完全なる理解に至る。

1章18節:あとは、想念を終わらせることを繰り返し行う。それは以前から存在しているサンスカーラの残りである。

1章19節:想念が生まれるのは、霊的な存在と、物質的な要素とが結合することによる。

1章20節:何かをしたいと思って、何か新たな行動をすると、それがこれまでの記憶や経験と結びついて、以前とは異なる新たな想念となる。

1章21節:獲得された想念により、とても強い思いで、さらに何かをしたくなる。

1章22節:想念とは異なるものがある。それは、穏やかなリラックスした状態、かつ、とらわれることのない中立な状態で、想念を超えたところにある。

1章23節:それはまた、イーシュヴァラ(全てを司る神的な聖なる存在)にすべてを委ねるということでもある。

1章24節:何らかの思考(クレーシャ)が生じる。何らかの行為(カルマ)をする。それらの結果(ヴィパーカ)が生じる。それがまた新たな思考や行為の原因(アーシャヤイル)となる。そのような事柄に影響を受けないものがあり、それがプルシャ(意識の源・真我)である。プルシャは、イーシュヴァラ(全てを司る神的な聖なる存在)が特別な形で現れたものである。

1章25節:そこ(プルシャ)は、最上の全ての知の源泉である。

1章26節:それ(プルシャ)は、太古からもともと存在している。それはまた、知を授ける存在であり、時間によって制約されることがない。

1章27節:それ(プルシャ)は、言わば「命をもたらすもの」である。

1章28節:それを繰り返し唱え、その働きについて想像し熟慮せよ。

1章29節:それにより、知性の中心へと到達し、同時に、障害となるものは無くなっていく。

1章30節:病を患っている状態、無関心にただ反応しているだけの状態、何かを疑っている状態、意識が散漫で不注意な状態、やる気がなく怠惰な状態、不摂生で自制できない状態、誤った観念で混乱している状態。それらは、基盤となるものがなく、不安定な状態のときに見られる。それはチッタ(心・マインド)の動揺によるものであり、それが障害である。

1章31節:心に生じる苦悩や失意、肉体的に不安定な状態は、呼吸の乱れと共に生じる。