ヨーガスートラの原文はインド古語(サンスクリット語)で、その訳文もいろいろあります。ここでは、下記の4冊の訳文を参考にしながら、読み解いていきます。

参考書籍(番号①~④が書籍と訳文の対応を示します)
①やさしく学ぶYOGA哲学 ヨーガスートラ(向井田みお著)
②解説ヨーガ・スートラ(佐保田鶴治著)
③インテグラル・ヨーガ パタンジャリのヨーガ・スートラ(スワミ・サッチダーナンダ著)
④現代人のためのヨーガ・スートラ(グレゴール・メーレ著)

【ヨーガスートラ:1章30節】

① (1)病気 (2)心が冴えない (3)疑いがある (4)集中できない (5)怠惰 (6)イライラ(物への依存や執着)、不摂生 (7)困惑 (8)達成感がない (9)継続できないことなど、この9つが心を邪魔し、苦悩をもたらす原因です。

②三昧に対する障害とは、(1)病気 (2)無気力 (3)疑 (4)放逸 (5)懶惰(らんだ) (6)執念(しゅうねん) (7)妄見(もうけん) (8)三昧の境地に入り得ない心理状態 (9)三昧の境地に入っても永くとどまり得ない心理状態など、すべて、心の散動状態をいうのである。

③病気、無気力、猜疑、散漫、怠惰、好色、妄見、不動の境地に至り得ない状態、獲得した地歩からの滑落-これらの心の散動が、その障害である。

④障害とは心の迷いのことであり、病、厳格さ、疑い、不注意、怠惰、放縦、誤った視点、ある状態を到達できないこと、その状態にとどまることができないことを指す。

ポイント1
原文をカタカナで書くと「ヴャーディ・スティヤーナ・サンシャヤ・プラマーダ・アーラスヤ・アヴィラティ・ブラーンティ・ダルシャナ・アラブダ・ブーミカトヴァ・アナヴァスティタトヴァーニ・チッタ・ヴィクシェーパース・テー・アンタラーヤーハ」です。

それぞれの語句の意味は下記の通り。(難しい仏教用語などを使わず、平易な語句で、単語のニュアンスをなるべく正確に残すように訳しています)

ヴャーディ:病を患っている状態
スティヤーナ:無関心にただ反応しているだけの状態
サンシャヤ:何かを疑っている状態
プラマーダ:意識が散漫で不注意な状態
アーラスヤ:やる気がなく怠惰な状態
アヴィラティ:不摂生で自制できない状態
ブラーンティ:誤った観念で混乱している状態
ダルシャナ:見えてくること、見受けられること、観察、知覚
アラブダ:得られなかった(「得られた」の否定形)
ブーミカトヴァ:基盤となるもの
アナヴァスティタトヴァーニ:不安定な状態
チッタ:心(マインド)
ヴィクシェーパース:動揺、あちこち動き回ること
テー・:それが
アンタラーヤーハ:障害

ポイント2
最初の7単語(ヴャーディ、スティヤーナ、サンシャヤ、プラマーダ、アーラスヤ、アヴィラティ、ブラーンティ)は、ネガティブな意味合いの単語の羅列ですが、それ以降(ダルシャナ以降)は、ちょっと雰囲気が変わっています。

従来の訳では、ダルシャナとそれ以降の語句も含めて、障害となるものが9つあると解釈しています。しかしながら、ダルシャナにはネガティブな意味合いはなく、しかもダルシャナの前後で、文の構成が明らかに異なっています。したがって、ダルシャナの前で一旦文章が切れると解釈した方がいいかもしれません。すると、下記のような訳になります。

「病を患っている状態、無関心にただ反応しているだけの状態、何かを疑っている状態、意識が散漫で不注意な状態、やる気がなく怠惰な状態、不摂生で自制できない状態、誤った観念で混乱している状態。見受けられる。基盤となるものがない。不安定な状態。チッタ(心・マインド)の動揺。それが障害。」

接続詞などを補うと、
「病を患っている状態、無関心にただ反応しているだけの状態、何かを疑っている状態、意識が散漫で不注意な状態、やる気がなく怠惰な状態、不摂生で自制できない状態、誤った観念で混乱している状態。それらは、基盤となるものがなく、不安定な状態のときに見られる。それはチッタ(心・マインド)の動揺によるものであり、それが障害である。」

ポイント3
本節の内容を言い換えると、「基盤となるもの」にちゃんと根を下ろして、安定した状態になれば、チッタの動揺が静まるということ。そのことは、この後の1章32節以降に書かれています。

【ここまでのまとめ(ボディ、マインド、スピリットの視点での訳)】

1章1節:これから、ヨガの解説をする。

1章2節:ヨガとは、マインドの働き(=心の作用)を解消することである。

1章3節:それができると、スピリットが本来の状態になる。

1章4節:普段は、スピリットとマインドが一体化して、区別がつかなくなっている。

1章5節:マインドの働きには、5種類あり、それらは人を悩み苦しませたり、そうでなかったりする。

1章6節:マインドの5つの働きとは「①正しい認識、②誤った認識、③言葉による概念や想像(ヴィカルパ)、④放心状態(ニドラー)、⑤感覚の保持(スムリティ)」である。

1章7節:正しい認識には「①自分の経験に基づき、その経験から直接分かったこと、②経験から類推して分かったこと、③経験に基づいたものではなく、本などから学んだこと」の3種類がある。

1章8節:誤った認識とは、何かを誤って解釈したことによる、正しくない理解である。

1章9節:実際には存在していなくても、言葉で理解して想像する。それがヴィカルパ(言葉による概念や想像)である。

1章10節:ニドラー(放心状態)は、何かに依存していて、想念が生まれない状態である。

1章11節:スムリティ(感覚の保持)は、何かを経験して感じたことが、消えることなく残存することである。

1章12節:マインドの働き(=心の作用)は、アビャーサとヴァイラーギャによって解消される。

1章13節:アビャーサは、ある状態にとどまろうとする取り組みを、繰り返し行うことである。

1章14節:その状態は、時間をかけて、中断することなく、意識を向けて、繰り返し実践することで、確固たる境地となる。

1章15節:自ら経験したことに対して、あるいは、自らは経験せずに伝え聞いたりしたことに対して、何かをしたいという欲求を克服して、対象をありのまま受け入れる。そのような意識がヴァイラーギャである。

1章16節:最高のヴァイラーギャは、純粋なる意識(プルシャあるいはスピリット)の視点であり、その視点に至れば、物質世界でのもろもろの事象(グナ)にとらわれなくなる。

1章17節:身体的感覚に関すること、心的感覚に関すること、究極の幸せの境地に関すること、自我の意識に関すること、それらを知ることで、完全なる理解に至る。

1章18節:あとは、想念を終わらせることを繰り返し行う。それは以前から存在しているサンスカーラの残りである。

1章19節:想念が生まれるのは、霊的な存在と、物質的な要素とが結合することによる。

1章20節:何かをしたいと思って、何か新たな行動をすると、それがこれまでの記憶や経験と結びついて、以前とは異なる新たな想念となる。

1章21節:獲得された想念により、とても強い思いで、さらに何かをしたくなる。

1章22節:想念とは異なるものがある。それは、穏やかなリラックスした状態、かつ、とらわれることのない中立な状態で、想念を超えたところにある。

1章23節:それはまた、イーシュヴァラ(全てを司る神的な聖なる存在)にすべてを委ねるということでもある。

1章24節:何らかの思考(クレーシャ)が生じる。何らかの行為(カルマ)をする。それらの結果(ヴィパーカ)が生じる。それがまた新たな思考や行為の原因(アーシャヤイル)となる。そのような事柄に影響を受けないものがあり、それがプルシャ(意識の源・真我)である。プルシャは、イーシュヴァラ(全てを司る神的な聖なる存在)が特別な形で現れたものである。

1章25節:そこ(プルシャ)は、最上の全ての知の源泉である。

1章26節:それ(プルシャ)は、太古からもともと存在している。それはまた、知を授ける存在であり、時間によって制約されることがない。

1章27節:それ(プルシャ)は、言わば「命をもたらすもの」である。

1章28節:それを繰り返し唱え、その働きについて想像し熟慮せよ。

1章29節:それにより、知性の中心へと到達し、同時に、障害となるものは無くなっていく。

1章30節:病を患っている状態、無関心にただ反応しているだけの状態、何かを疑っている状態、意識が散漫で不注意な状態、やる気がなく怠惰な状態、不摂生で自制できない状態、誤った観念で混乱している状態。それらは、基盤となるものがなく、不安定な状態のときに見られる。それはチッタ(心・マインド)の動揺によるものであり、それが障害である。