ヨーガスートラの原文はインド古語(サンスクリット語)で、その訳文もいろいろあります。ここでは、下記の4冊の訳文を参考にしながら、読み解いていきます。

参考書籍(番号①~④が書籍と訳文の対応を示します)
①やさしく学ぶYOGA哲学 ヨーガスートラ(向井田みお著)
②解説ヨーガ・スートラ(佐保田鶴治著)
③インテグラル・ヨーガ パタンジャリのヨーガ・スートラ(スワミ・サッチダーナンダ著)
④現代人のためのヨーガ・スートラ(グレゴール・メーレ著)

【ヨーガスートラ:1章19節】

①生まれながらに、深い瞑想が自然にできる質を備えているのが、天使や自然界を治める神々たちです。

②離身者(りしんしゃ)たちと自性に没入したひとたちとには、存在の想念を含むところの以て非なる無想三昧がある。

③単に物質的身体を去って天界の神格たる状態に至った者、あるいは自然(プラクリティ)〔自性〕に没入した者には、再生がある。

④肉体を持たない者、プラクリティに没入する者には出現の意図がある。

ポイント1
原文をカタカナで書くと「バヴァ・プラティヤヨー・ヴィデーハ・プラクリティ・ラヤーナーム」で、それらの語句を単純に日本語に置き換えると「発生・想念・物理的実体がない・プラクリティ(物質的な要素)・結びつき」といったところです。

ポイント2
どの訳文も、原文と比べると、訳者による解釈の部分がかなり含まれていることが分かります。そして、どの訳文も「ヴィデーハ」や「プラクリティ・ラヤーナーム」のことを「肉体を持たない特別な者」であるとして、本節では、そのような存在を説明している、と解釈しています。

ポイント3
プラクリティは、物質世界の源の総称的な呼び名であり、根本原質と訳されるときもあります。私たちが目にする物、手に触れる物、それらは全てプラクリティの現れです。

一方、ヴィデーハは、物理的実体のないもののことであり、プラクリティを超越した存在と言ってもいいでしょう。訳文では、ヴィデーハのことを、天使、離身者、天界の神格たる状態に至った者、肉体を持たない者、などと解釈しています。

しかしながら、ヴィデーハは物理的実体がない「なにか」のことであり、それ自体が「人格のある者」とは言い切れないので、もう少し広くとらえて「霊的な存在」と訳した方が適切かもしれません。

ポイント4
本節は「神のような特別な存在についての説明」と理解するのが伝統的な解釈です。そかし、そのような従来の解釈にとらわれずに、素直に原文を訳すと以下のようになるでしょう。

「想念が生まれるのは、霊的な存在と、物質的な要素とが結合することによる。」

素直に訳すと、従来の訳とはまるで違う内容が浮かび上がってきます。「ボディ・マインド・スピリット」の視点で言えば、本節の内容は「肉体(ボディ)に命(スピリット)が宿り、そこに心(マインド)が生まれる」ということになります。この訳が正しいかどうかは分かりません。しかし、ここでは原文をそのまま理解することを重視して、原文を素直に訳した上記の訳を採用することとします。

【ここまでのまとめ(ボディ、マインド、スピリットの視点での訳)】

1章1節:これから、ヨガの解説をする。

1章2節:ヨガとは、マインドの働き(=心の作用)を解消することである。

1章3節:それができると、スピリットが本来の状態になる。

1章4節:普段は、スピリットとマインドが一体化して、区別がつかなくなっている。

1章5節:マインドの働きには、5種類あり、それらは人を悩み苦しませたり、そうでなかったりする。

1章6節:マインドの5つの働きとは「①正しい認識、②誤った認識、③言葉による概念や想像(ヴィカルパ)、④放心状態(ニドラー)、⑤感覚の保持(スムリティ)」である。

1章7節:正しい認識には「①自分の経験に基づき、その経験から直接分かったこと、②経験から類推して分かったこと、③経験に基づいたものではなく、本などから学んだこと」の3種類がある。

1章8節:誤った認識とは、何かを誤って解釈したことによる、正しくない理解である。

1章9節:実際には存在していなくても、言葉で理解して想像する。それがヴィカルパ(言葉による概念や想像)である。

1章10節:ニドラー(放心状態)は、何かに依存していて、想念が生まれない状態である。

1章11節:スムリティ(感覚の保持)は、何かを経験して感じたことが、消えることなく残存することである。

1章12節:マインドの働き(=心の作用)は、アビャーサとヴァイラーギャによって解消される。

1章13節:アビャーサは、ある状態にとどまろうとする取り組みを、繰り返し行うことである。

1章14節:その状態は、時間をかけて、中断することなく、意識を向けて、繰り返し実践することで、確固たる境地となる。

1章15節:自ら経験したことに対して、あるいは、自らは経験せずに伝え聞いたりしたことに対して、何かをしたいという欲求を克服して、対象をありのまま受け入れる。そのような意識がヴァイラーギャである。

1章16節:最高のヴァイラーギャは、純粋なる意識(プルシャあるいはスピリット)の視点であり、その視点に至れば、物質世界でのもろもろの事象(グナ)にとらわれなくなる。

1章17節:身体的感覚に関すること、心的感覚に関すること、究極の幸せの境地に関すること、自我の意識に関すること、それらを知ることで、完全なる理解に至る。

1章18節:あとは、想念を終わらせることを繰り返し行う。それは以前から存在しているサンスカーラの残りである。

1章19節:想念が生まれるのは、霊的な存在と、物質的な要素とが結合することによる。