ヨーガスートラの原文はインド古語(サンスクリット語)で、その訳文もいろいろあります。ここでは、下記の4冊の訳文を参考にしながら、読み解いていきます。

参考書籍(番号①~④が書籍と訳文の対応を示します)
①やさしく学ぶYOGA哲学 ヨーガスートラ(向井田みお著)
②解説ヨーガ・スートラ(佐保田鶴治著)
③インテグラル・ヨーガ パタンジャリのヨーガ・スートラ(スワミ・サッチダーナンダ著)
④現代人のためのヨーガ・スートラ(グレゴール・メーレ著)

【ヨーガスートラ:1章20節】

①誠実に、熱心に、継続して、落ち着いて瞑想を練習することによって、(生まれつき瞑想の質をもってない人たちも)真実を知り、サマーディ(瞑想状態)に至ることができます。

②その他の人々、つまりヨーガ行者たちの無想三昧は堅信、努力、念想、三昧、真智等を手段として得られるものである。

③その他の者(ヨーギーたち)は、堅信、努力、念想、三昧、叡智を通して、このアサムプラジュニャータ・サマーディを得ることができる。

④他の人は、信念、情熱、記憶、サマーディ、叡智を通じて、アサンプラジュニャータ・サマーディを得られる。

ポイント1
原文をカタカナで書くと「シュラッダー・ヴィーリャ・スムリティ・サマーディ・プラジュニャー・プールヴァカ・イタレーシャーム」で、それらの語句を単純に日本語に置き換えると「願いや望み・行動・記録されているもの・結合すること・知恵や教訓・以前のもの・異なる」といったところです。

ポイント2
従来の訳では、19節では「肉体を持たない特別な者」を説明して、20節では、そうでない人(=ヨガの行者)がサマーディに至る方法を説明している、と解釈しています。しかし、前回解説したように、19節が「想念」についての説明であるとすると、本節も新たな訳が必要になります。

ポイント3
「神の意識と個の意識が一体になった状態」が究極の瞑想状態で、それをサマーディと呼ぶことが多いです。従来の訳でも、サマーディをヨガの行者が到達すべき特別な瞑想状態と解釈しています。

しかしながら、サマーディという言葉は、もともとは単に「結合すること」を表す言葉です。必ずしも神との一体化を表すとは限りません。そのような視点で、サマーディを含むところを普通に訳すと、「シュラッダー・ヴィーリャ(願望に基づく行動)」と「スムリティ(記録されていたもの)」が「サマーディ(結合する)」ということになります。簡単に言えば「行動と経験が結びつく」ということです。

ポイント4
スムリティは、以前にも出てきている言葉です。簡単に復習しておくと「ヨガとは、マインドの働きを解消すること。マインドの働きには5つあり、その一つがスムリティ」です。つまり、スムリティは解消していくべき対象の一つ。それなのに従来の訳では、スムリティを「継続して」「念想」「記憶」などと訳して、ヨガの行者がすべきことの一つとしています。このことからも、従来の訳には無理があることが分かります。

ポイント5
ヴィーリャという言葉には「男らしい」という意味合いが含まれています。ポイント3では単に「ヴィーリャ=行動」としましたが、男らしい行動とした方が正確かもしれません。

男らしい行動とは、どういう意味でしょう? 男性性は、今までにないことにチャレンジする傾向にあり、女性性は、これまであるものを維持して守る傾向にあります。ヴィーリャという男性性を表す言葉を用いているのは、「今までとは異なる新たな行動」を表しているからでしょう。

「ヨガの道しるべ」で、ボディ&マインドは反応パターンの集合体であることを解説しましたが、本節では、ボディ&マインドに「新たな反応パターン」を追加していくプロセスを説明しているように思えます。そう解釈すると、ヴィーリャという言葉が使われていることが、素直に納得できます。

ポイント6
原文後半の「プラジュニャー・プールヴァカ・イタレーシャーム」ですが、素直に訳すと「以前のものとは異なる知恵や教訓」といったところです。

知恵や教訓というのは、こーゆーときには、こうする。あーゆーときには、ああする。そんなことの積み重ねであり、「ヨガの道しるべ」の表現で言えば、それらは心身の反応パターンです。したがって、原文後半の部分をヨガの道しるべ的に訳すと「心身に追加される新たな反応パターン」ということになります。(それはつまり、新たな想念が生成されるということでもあります)

ポイント7
ここまでの考察に基づいて解釈すると、「19節では、想念が生まれることについて説明していて、本節では、想念がさらに生成発展していくプロセスを説明している」ということになります。その視点で、本節を訳すと以下のようになります。

「何かをしたいと思って、何か新たな行動をすると、それがこれまでの記憶や経験と結びついて、以前とは異なる新たな想念となる。」

【ここまでのまとめ(ボディ、マインド、スピリットの視点での訳)】

1章1節:これから、ヨガの解説をする。

1章2節:ヨガとは、マインドの働き(=心の作用)を解消することである。

1章3節:それができると、スピリットが本来の状態になる。

1章4節:普段は、スピリットとマインドが一体化して、区別がつかなくなっている。

1章5節:マインドの働きには、5種類あり、それらは人を悩み苦しませたり、そうでなかったりする。

1章6節:マインドの5つの働きとは「①正しい認識、②誤った認識、③言葉による概念や想像(ヴィカルパ)、④放心状態(ニドラー)、⑤感覚の保持(スムリティ)」である。

1章7節:正しい認識には「①自分の経験に基づき、その経験から直接分かったこと、②経験から類推して分かったこと、③経験に基づいたものではなく、本などから学んだこと」の3種類がある。

1章8節:誤った認識とは、何かを誤って解釈したことによる、正しくない理解である。

1章9節:実際には存在していなくても、言葉で理解して想像する。それがヴィカルパ(言葉による概念や想像)である。

1章10節:ニドラー(放心状態)は、何かに依存していて、想念が生まれない状態である。

1章11節:スムリティ(感覚の保持)は、何かを経験して感じたことが、消えることなく残存することである。

1章12節:マインドの働き(=心の作用)は、アビャーサとヴァイラーギャによって解消される。

1章13節:アビャーサは、ある状態にとどまろうとする取り組みを、繰り返し行うことである。

1章14節:その状態は、時間をかけて、中断することなく、意識を向けて、繰り返し実践することで、確固たる境地となる。

1章15節:自ら経験したことに対して、あるいは、自らは経験せずに伝え聞いたりしたことに対して、何かをしたいという欲求を克服して、対象をありのまま受け入れる。そのような意識がヴァイラーギャである。

1章16節:最高のヴァイラーギャは、純粋なる意識(プルシャあるいはスピリット)の視点であり、その視点に至れば、物質世界でのもろもろの事象(グナ)にとらわれなくなる。

1章17節:身体的感覚に関すること、心的感覚に関すること、究極の幸せの境地に関すること、自我の意識に関すること、それらを知ることで、完全なる理解に至る。

1章18節:あとは、想念を終わらせることを繰り返し行う。それは以前から存在しているサンスカーラの残りである。

1章19節:想念が生まれるのは、霊的な存在と、物質的な要素とが結合することによる。

1章20節:何かをしたいと思って、何か新たな行動をすると、それがこれまでの記憶や経験と結びついて、以前とは異なる新たな想念となる。