ヨーガスートラの原文はインド古語(サンスクリット語)で、その訳文もいろいろあります。ここでは、下記の4冊の訳文を参考にしながら、読み解いていきます。

参考書籍(番号①~④が書籍と訳文の対応を示します)
①やさしく学ぶYOGA哲学 ヨーガスートラ(向井田みお著)
②解説ヨーガ・スートラ(佐保田鶴治著)
③インテグラル・ヨーガ パタンジャリのヨーガ・スートラ(スワミ・サッチダーナンダ著)
④現代人のためのヨーガ・スートラ(グレゴール・メーレ著)

【ヨーガスートラ:1章18節】

①心の静寂の原因である自分自身を分析する瞑想を繰り返した後、アサンプラッニャータ・サマーディ(分析を終えた後の瞑想)がおこります。しかし、この瞑想でも、心に刻まれた過去の潜在的な記憶は残ります。

②もうひとつの三昧は、心のうごきを止める想念を修習した結果、止念の行だけが残っている境地である。

③心の作用の完全停止が確固不抜に修められることによって、後に残るのは印象〔サンスカーラ、行〕のみとなる。これがいま一つのサマーディ【アサムプラジュニャータ・サマーディ、区別なき三昧】〔無想三昧〕である。

④もう1つのサマーディは心のはたらきを静める実践をした結果起こり、潜在印象だけを残す。

ポイント1

従来の訳の大半は、前節は「サムプラジュニャータ・サマーディ(有想三昧)」の説明であり、それに対して本節は「アサムプラジュニャータ・サマーディ(無想三昧)」の説明であるとしています。

しかしながら、どちらもヨーガスートラの原文に書かれていることではありません。有想三昧も無想三昧も、後世の人の解釈であり、原典には書かれていない意味合いを付加した説明です。

本節の原文をカタカナで書くと「ヴィラーマ・プラティヤヤ・アビャーサ・プールヴァハ・サンスカーラ・シェーショー・ニャハ」であり、それらの訳は「終わらせる・想念・繰り返し・前からある・サンスカーラ・残り・その他には」という感じです。サマーディはもちろん、サムプラジュニャータもアサムプラジュニャータも書かれていません。

ポイント2:サンスカーラについて

『様々な経験は、その残存物を生じさせ、それが心身に保存される。この残存物をサンスカーラと呼び、これが刺激されると、その反応として習慣的パターン化した思考や行為が生じる。この反応による経験は、それ自身の残存物を生じさせ、それが再び心身に保存される。人はこの循環を繰り返している。』

上の説明だとちょっと難しそうですが、簡単に言えば「心や体の反応のパターン」のことです。「ヨガの道しるべ」で、「心や体は反応パターンの集まり」であることを繰り返し説明しましたが、それがサンスカーラです。(サンスカーラは、潜在印象や残存印象などと訳されることが多いです)

1章2節で「ヨガとは、マインドの働き(=心の作用)を解消することである」とありましたが、別の言い方をすれば、「ヨガとは、心や体は反応パターンを解消していくこと」=「サンスカーラを消していくこと」なのです。

ポイント3

上述したように、本節は無想三昧の説明であるとするのが一般的ですが、ここでは、従来の訳にとらわれずに、原典を素直に解釈していきます。

本節の原文「ヴィラーマ・プラティヤヤ・アビャーサ・プールヴァハ・サンスカーラ・シェーショー・ニャハ」を逐次的に訳すと「終わらせる・想念・繰り返し・前からある・サンスカーラ・残り・その他には」となり、それを素直に繋げて文章にすると、以下のようになります。

「あとは、想念を終わらせることを繰り返し行う。それは以前から存在しているサンスカーラの残りである。」

従来の訳文を読んでいると、とても難しそうですが、原文を素直に訳すと、特に難しいことが書いてあるわけではありません。前節で「完全なる理解に至る道筋」が示されたけど、それを知るだけでは不十分で、それを理解したならば、あとは実践(=サンスカーラを消していくこと=心の作用の解消)をすべし、ということでしょう。

【ここまでのまとめ(ボディ、マインド、スピリットの視点での訳)】

1章1節:これから、ヨガの解説をする。

1章2節:ヨガとは、マインドの働き(=心の作用)を解消することである。

1章3節:それができると、スピリットが本来の状態になる。

1章4節:普段は、スピリットとマインドが一体化して、区別がつかなくなっている。

1章5節:マインドの働きには、5種類あり、それらは人を悩み苦しませたり、そうでなかったりする。

1章6節:マインドの5つの働きとは「①正しい認識、②誤った認識、③言葉による概念や想像(ヴィカルパ)、④放心状態(ニドラー)、⑤感覚の保持(スムリティ)」である。

1章7節:正しい認識には「①自分の経験に基づき、その経験から直接分かったこと、②経験から類推して分かったこと、③経験に基づいたものではなく、本などから学んだこと」の3種類がある。

1章8節:誤った認識とは、何かを誤って解釈したことによる、正しくない理解である。

1章9節:実際には存在していなくても、言葉で理解して想像する。それがヴィカルパ(言葉による概念や想像)である。

1章10節:ニドラー(放心状態)は、何かに依存していて、想念が生まれない状態である。

1章11節:スムリティ(感覚の保持)は、何かを経験して感じたことが、消えることなく残存することである。

1章12節:マインドの働き(=心の作用)は、アビャーサとヴァイラーギャによって解消される。

1章13節:アビャーサは、ある状態にとどまろうとする取り組みを、繰り返し行うことである。

1章14節:その状態は、時間をかけて、中断することなく、意識を向けて、繰り返し実践することで、確固たる境地となる。

1章15節:自ら経験したことに対して、あるいは、自らは経験せずに伝え聞いたりしたことに対して、何かをしたいという欲求を克服して、対象をありのまま受け入れる。そのような意識がヴァイラーギャである。

1章16節:最高のヴァイラーギャは、純粋なる意識(プルシャあるいはスピリット)の視点であり、その視点に至れば、物質世界でのもろもろの事象(グナ)にとらわれなくなる。

1章17節:身体的感覚に関すること、心的感覚に関すること、究極の幸せの境地に関すること、自我の意識に関すること、それらを知ることで、完全なる理解に至る。

1章18節:あとは、想念を終わらせることを繰り返し行う。それは以前から存在しているサンスカーラの残りである。