ヨーガスートラの原文はインド古語(サンスクリット語)で、その訳文もいろいろあります。ここでは、下記の4冊の訳文を参考にしながら、読み解いていきます。

参考書籍(番号①~④が書籍と訳文の対応を示します)
①やさしく学ぶYOGA哲学 ヨーガスートラ(向井田みお著)
②解説ヨーガ・スートラ(佐保田鶴治著)
③インテグラル・ヨーガ パタンジャリのヨーガ・スートラ(スワミ・サッチダーナンダ著)
④現代人のためのヨーガ・スートラ(グレゴール・メーレ著)

【ヨーガスートラ:1章41節】

①考えが静まる時、人の本質は、変化するようだけれど、本当はどんなことにも影響されないという理解に至ります。

②かくして心のはたらきのすべてが消え去ったならば、あたかも透明な宝石がそのかたわらの花などの色に染まるように、心は認識主体(真我)、認識器官(心理器官)、認識対象のうちのどれかにとどまり、それに染められる。これが定(じょう)とよばれるものである。

③自然の透明な水晶がかたわらに置かれた物の色や形をとるように、作用が完全に衰微したヨーギーの心は、澄明・静然となって、知る物と知られるものと知との区別のない状態に達する。この瞑想の極点が、サマーディ(三昧)である。

④心の波が少なくなれば、知覚されるもの、知覚する過程、知覚する者のいずれであろうと、まるで汚れのない水晶のように目を向けたいかなる対象も、心は正しく映しているように見える。この状態を同一性と呼ぶ。

原文:
クシィーナ・ヴリッテール・アビジャータスヤ・イヴァ・ マネール・グラヒートリ・グラハナ・グラーヒャェーシュ・タット・スタ・タット・アジャナ・ター・サマーパッティヒ

語句の意味:

 クシィーナ:静まった、減った、衰えた、微かな など
 ヴリッテール:動き回る、繰り返し動く、乱れ動く など

 アビジャータスヤ:生来の、生まれながら、本来の状態、もともと美しい など
 イヴァ:~のように、~のごとく など
 マネール:宝石、宝珠、真珠 など

 グラヒートリ:知覚する者、認識主体 など
 グラハナ:知覚すること、認識 など
 グラーヒャェーシュ:知覚される物、認識対象 など

 タット:それ、あれ
 スタ:とどまる、存在する、止まる など

 タット:それ、あれ
 アジャナ:混ざりあった、同一になる、区別がなくなる など
 ター:~な性質、~となった状態 など

 サマーパッティ:出会うこと、遭遇すること、邂逅 など

ポイント1
本節から、「心の乱れ(チッタ・ブリッティ)が解消されたら、どうなるのか」の説明となります。

ポイント2
従来の訳では「心の作用がすべてが消え去ったら、心は透明な水晶にように全てを正しく映し出す。それがサマーディ(三昧)である。」というように解釈されることが多いようです。

しかしながら、原文の冒頭「クシィーナ・ヴリッテール」は、「心の作用がすべてが消え去ったら」ではなく、「心の作用が弱まり、静まってきたら」というニュアンスです。

また、その結果として原文に書かれているのは、「サマーディ」ではなく「サマーパッティ」です。「サマーディ」は、「一体になること、ワンネス」などの意味合いなのに対して、「サマーパッティ」は、その前段階であり、「遭遇すること、邂逅すること」などの意味合いです。

つまり本節では、サマーディという究極の境地の説明ではなく、そこに至る段階として、「心の作用が静まってきたら、サマーディの前段階であるサマーパッティになる」ということについて書かれていると解釈する方が自然でしょう。

ポイント3
従来の訳では「マネール」を透明で汚れのない水晶や宝石であるとし、そこにいろんなものが映り込むように解釈しています。しかし、マネールは「透明」という意味合いよりも、宝石のように「価値あるもの」という意味合いが強い言葉。「透明なものに映り込む」というのは、やや不自然な解釈です。

ポイント4
意訳することなく、原文をそのまま逐語的に訳すと、「動きが静まる、本来の状態、宝珠のごとき、知覚する者、知覚すること、知覚される物、それらの動きは止まる、それらは出会い混ざり合った状態、サマーパッティ」という感じです。

「それらの動きは止まる、それらは出会い混ざり合った状態」というのは、瞑想に取り組んでいる方ならば、すぐに理解できる内容だと思います。

「たくさんの波が立っていて、それぞれが波として独立した存在のように見える。でも波が静まっていくと、それらの区別は無くなり、すべてはただの海。すべては一つ。それがもともとの状態」

波と海の例え話のようなあり方を理解していると、本節の内容は、わざわざ難しい意訳をしなくても、逐語訳を見たら、すぐに理解できる内容でしょう。

ポイント5
以上を踏まえて、本節を日本語の文章として分かりやすくすると、下記のようになります。

『心の乱れ(チッタ・ブリッティ)が静まってくると、本来の状態になっていく。それは宝珠のごとき素晴らしきもの。知覚する者、知覚すること、知覚される物。それらの動きは止まり、それらは出会い混ざり合っていく。それがサマーパッティである』

【ここまでのまとめ(ボディ、マインド、スピリットの視点での訳)】

1章1節:これから、ヨガの解説をする。

1章2節:ヨガとは、マインドの働き(=心の作用)を解消することである。

1章3節:それができると、スピリットが本来の状態になる。

1章4節:普段は、スピリットとマインドが一体化して、区別がつかなくなっている。

1章5節:マインドの働きには、5種類あり、それらは人を悩み苦しませたり、そうでなかったりする。

1章6節:マインドの5つの働きとは「①正しい認識、②誤った認識、③言葉による概念や想像(ヴィカルパ)、④放心状態(ニドラー)、⑤感覚の保持(スムリティ)」である。

1章7節:正しい認識には「①自分の経験に基づき、その経験から直接分かったこと、②経験から類推して分かったこと、③経験に基づいたものではなく、本などから学んだこと」の3種類がある。

1章8節:誤った認識とは、何かを誤って解釈したことによる、正しくない理解である。

1章9節:実際には存在していなくても、言葉で理解して想像する。それがヴィカルパ(言葉による概念や想像)である。

1章10節:ニドラー(放心状態)は、何かに依存していて、想念が生まれない状態である。

1章11節:スムリティ(感覚の保持)は、何かを経験して感じたことが、消えることなく残存することである。

1章12節:マインドの働き(=心の作用)は、アビャーサとヴァイラーギャによって解消される。

1章13節:アビャーサは、ある状態にとどまろうとする取り組みを、繰り返し行うことである。

1章14節:その状態は、時間をかけて、中断することなく、意識を向けて、繰り返し実践することで、確固たる境地となる。

1章15節:自ら経験したことに対して、あるいは、自らは経験せずに伝え聞いたりしたことに対して、何かをしたいという欲求を克服して、対象をありのまま受け入れる。そのような意識がヴァイラーギャである。

1章16節:最高のヴァイラーギャは、純粋なる意識(プルシャあるいはスピリット)の視点であり、その視点に至れば、物質世界でのもろもろの事象(グナ)にとらわれなくなる。

1章17節:身体的感覚に関すること、心的感覚に関すること、究極の幸せの境地に関すること、自我の意識に関すること、それらを知ることで、完全なる理解に至る。

1章18節:あとは、想念を終わらせることを繰り返し行う。それは以前から存在しているサンスカーラの残りである。

1章19節:想念が生まれるのは、霊的な存在と、物質的な要素とが結合することによる。

1章20節:何かをしたいと思って、何か新たな行動をすると、それがこれまでの記憶や経験と結びついて、以前とは異なる新たな想念となる。

1章21節:獲得された想念により、とても強い思いで、さらに何かをしたくなる。

1章22節:想念とは異なるものがある。それは、穏やかなリラックスした状態、かつ、とらわれることのない中立な状態で、想念を超えたところにある。

1章23節:それはまた、イーシュヴァラ(全てを司る神的な聖なる存在)にすべてを委ねるということでもある。

1章24節:何らかの思考(クレーシャ)が生じる。何らかの行為(カルマ)をする。それらの結果(ヴィパーカ)が生じる。それがまた新たな思考や行為の原因(アーシャヤイル)となる。そのような事柄に影響を受けないものがあり、それがプルシャ(意識の源・真我)である。プルシャは、イーシュヴァラ(全てを司る神的な聖なる存在)が特別な形で現れたものである。

1章25節:そこ(プルシャ)は、最上の全ての知の源泉である。

1章26節:それ(プルシャ)は、太古からもともと存在している。それはまた、知を授ける存在であり、時間によって制約されることがない。

1章27節:それ(プルシャ)は、言わば「命をもたらすもの」である。

1章28節:それを繰り返し唱え、その働きについて想像し熟慮せよ。

1章29節:それにより、知性の中心へと到達し、同時に、障害となるものは無くなっていく。

1章30節:病を患っている状態、無関心にただ反応しているだけの状態、何かを疑っている状態、意識が散漫で不注意な状態、やる気がなく怠惰な状態、不摂生で自制できない状態、誤った観念で混乱している状態。それらは、基盤となるものがなく、不安定な状態のときに見られる。それはチッタ(心・マインド)の動揺によるものであり、それが障害である。

1章31節:心に生じる苦悩や失意、肉体的に不安定な状態は、呼吸の乱れと共に生じる。

1章32節:それを防ぐために、唯一の真理にとどまる取り組みを繰り返し行う。

1章33節:衆生の楽を望む慈しみの心。衆生の苦を抜いてあげたいと思う憐れみの心。衆生の喜ばしい状態を共に喜ぶ心。差別や執着を捨て、すべてを平等に観る心。それらは、安楽、苦痛、善行、悪行に、それぞれ対応する。それらを念想することで、チッタ(心・マインド)は清浄になっていく。

1章34節:(チッタの乱れを解消するには)息を吐く、止めて保つ、そのように呼吸。

1章35節:(チッタの乱れを解消するには)生成され、存在している、心の反応に対して、安定した不動の状態にとどまりつつ、意識を向ける。

1章36節:(チッタの乱れを解消するには)悲しみや苦悩から離れよ。そして、自己の内にある輝かしい知性を働かせよ。

1章37節:(チッタの乱れを解消するには)チッタを、欲求の対象から離れるようにする。

1章38節:夢を見ているとき、放心状態のとき、そこに滞留していることに気づくことによって(チッタの乱れを解消できる)

1章39節:さらにまた、適切になされた瞑想によっても(チッタの乱れを解消できる)

1章40節:(チッタの乱れに関して)最も些細なことから、最も大きなことまで、極限まで、これを克服していく。

1章41節:心の乱れ(チッタ・ブリッティ)が静まってくると、本来の状態になっていく。それは宝珠のごとき素晴らしきもの。知覚する者、知覚すること、知覚される物。それらの動きは止まり、それらは出会い混ざり合っていく。それがサマーパッティである。