*** AIによる解説 ***

原文:
दुःखानुशयी द्वेषः॥८॥

読み方:
ドゥッカーヌシャイー ドヴェーシャハ

英訳:
Aversion (Dveṣa) is the residue that follows painful experience.

和訳:
ドヴェーシャ(嫌悪)とは、苦しみの経験に伴って心に残る痕跡(潜在的印象)である。

各単語の日本語での意味:

दुःख (duḥkha,ドゥッカ):苦しみ、痛み、不快

अनुशयी (anuśayī,アヌシャイー):あとに残るもの、潜在的な痕跡

द्वेषः (dveṣaḥ,ドヴェーシャハ):嫌悪、憎しみ、避けようとする心

解説:
このスートラは、五つのクレシャ(煩悩)のうち、ドヴェーシャ(嫌悪)がどのように生まれるかを説明しています。

人は「苦しみ(duḥkha)」を体験すると、その経験を繰り返したくないと感じます。その思いが心に痕跡(anuśayī)として残り、次に似た状況に出会うと、自動的に「避けたい」「嫌だ」という反応が生まれます。これが「ドヴェーシャ(dveṣa)=嫌悪・拒絶・反発心」です。

「嫌だ」と思うことそのものが問題なのではなく、「反応として自動的に嫌悪感が起こり、心を支配すること」が問題です。これは「快楽に対する執着(rāga)」と対をなす心理反応であり、心の自由を妨げます。ヨーガでは「嫌だから避ける」「苦しいから無視する」という反応を手放し、ただ「今あること」を観照する練習をしていきます。

*** ここまではAIによる解説。以下はそれを踏まえての解釈です ***

本節では、クレーシャ(苦悩や煩悩) の5つの要素のうちの4つ目「 ドヴェーシャ 」を解説していますが、前節とほぼ同じような文の作りになっています。

つまり、第7節と第8節では、心の中に生じる「執着」と「嫌悪」という二つの反応の仕組みを、それぞれ快と苦という対になる体験に基づいて説明しています。

私たちが快楽や心地よさを経験したとき、その体験は一度きりで終わるのではなく、心の中に痕跡を残します。その痕跡は「また同じものを得たい」「繰り返したい」という欲望や期待となって残り、これが第7節の「ラーガ」と呼ばれる執着です。これは必ずしも悪いものに見えませんが、ヨーガの視点からは、心が過去の快楽に縛られ、未来に対して欲望を持つことで、現在から離れてしまう状態とされます。

一方、第8節では「ドヴェーシャ(嫌悪)」が扱われています。これは、苦しみや不快な体験をしたときに生じます。人は苦を避けようとする傾向があり、その避けたいという反応もまた、心の中に痕跡として残ります。「もう二度と体験したくない」「あれは嫌だった」という記憶が、同じような状況に出会ったときに、無意識に反応を引き起こすようになり、それが「嫌悪」という心のクセになります。

つまり、ラーガは快に対する執着の反応、ドヴェーシャは苦に対する拒絶の反応であり、どちらも「過去の体験の痕跡」がもとになっています。ヨーガの実践では、このような無意識の反応に気づき、執着も嫌悪もない中立の意識を育てることが重視されます。そうすることで、心は外の出来事に左右されず、内なる静けさと自由に近づいていくのです。

以上を踏まえて本節を訳すと、以下のようになります。

ドゥッカ(苦しみの経験)の後に残るもの(潜在的印象)があり、それがドヴェーシャ(嫌悪)となる。

ヨーガスートラ第2章(本節までの訳)

第1節:タパス(肉体を浄化して整えること)、スヴァーディヤーヤ (知的な理解を深めること)、イーシュワラ プラニダーナ(神に委ねること)。それらの実践によりヨガを成し遂げることができる。

第2節:
その目的は、サマーディの状態に至るとともに、クレーシャ(苦悩や煩悩)を弱めていくことである。

第3節:
アヴィディヤ(無知)、アスミタ(我執)、ラーガ(執着)、ドヴェーシャ(嫌悪)、アビニヴェーシャ(生命への固執)が、クレーシャ(苦悩や煩悩)の源である。

第4節:
アヴィディヤ(無知)は、他のクレーシャ(苦悩や煩悩)のもととなる。眠りに落ちているかのようにもろく弱く、高貴なものとの繋がりが断たれている状態である。

第5節:
永遠ではないもの、不純なもの、苦しみ、自己の本質でないもの。永遠なるもの、純粋なもの、安楽、自己の本質。それらについて、誤って認識しているのがアヴィディヤ(無知)である。

第6節:
アスミタ(我執)は、「ドゥリグ(見る者、観照者)」と「ダルシャナ(見る働き、認識の作用)」を一体視してしまうことである。
第7節:
スカ(快楽)の後に残るもの(潜在印象)があり、それがラーガ(執着)となる。

第8節:
ドゥッカ(苦しみの経験)の後に残るもの(潜在的印象)があり、それがドヴェーシャ(嫌悪)となる。