
*** AIによる解説 ***
原文:
ते ह्लाद-परिताप-फलाः पुण्यापुण्य-हेतुत्वात्
te hlāda-paritāpa-phalāḥ puṇyāpuṇya-hetutvāt
読み方:
テー フラーダ・パリターパ・パラーハ プンニャーアプンニャ・ヘートゥトヴァート
英訳:
They result in pleasure or pain, depending on whether their cause is virtue or non-virtue.
和訳:
それら(カルマの結果)は、快と苦という形で現れる。それは、善なる原因によるか、不善なる原因によるかによってである。
各単語の意味:
te(テー):それらは(前節で述べられたカルマの結果)
hlāda(フラーダ):喜び、快、心地よさ
paritāpa(パリターパ):苦しみ、痛み、熱悩
phalāḥ(パラーハ):結果、果報
puṇya(プンニャ):善、功徳、清らかな行為
apuṇya(アプンニャ):不善、非功徳、汚れた行為
hetutvāt(ヘートゥトヴァート):原因であることによって、原因となる性質ゆえに
解説:
第2章第13節で、カルマの根が成熟(vipāka)して「生きて経験するという状態(jāti-āyur-bhoga)」が生じることが述べられました。第14節は、その「経験の質」について語っています。
カルマが熟して現れるとき、その体験は必ずしも同じ性質ではありません。あるものは快として、あるものは苦として経験されます。その違いを生むのが、原因となった行為や心のあり方が「善(puṇya)」であったか、「不善(apuṇya)」であったか、という点です。
ここで重要なのは、快・苦が「外から与えられる報酬や罰」ではなく、原因と結果の自然な流れとして示されていることです。クレシャに基づかない清らかな行為は、心を鎮め、調和した経験をもたらしやすく、クレシャに染まった無自覚な行為は、後に不快や苦悩として感じられる経験を生みます。
また、この節でも「認識しているかどうか」は問題にされていません。善悪の判断を意図的にしていなくても、行為の質は結果に反映されます。つまり、私たちは常に、気づいていようといまいと、経験の種を蒔き、その成熟を生きて体験している、という理解がここに示されています。
第13節が「カルマは必ず経験として現れる」ことを示したのに対し、第14節は「その経験が、どのような味わいをもつのか」を明確にしている、と読むことができます。
*** ここまではAIによる解説。以下はそれを踏まえての解釈です ***

本節は、一般には「善い行為は快を、悪い行為は苦をもたらす」という道徳的な教えとして説明されがちです。しかし、サンスクリット語の原文を丁寧に見ると、必ずしも善悪の裁きについて語っているわけではないことが分かってきます。
鍵となる言葉が puṇya(プンニャ)と apuṇya(アプンニャ)です。これらは後の時代に「善業・悪業」と訳されるようになりましたが、もともとは「心身を澄ませ、整え、純化の方向へ向かわせる働き」と「その反対の方向へ向かわせる働き」を指す言葉でした。つまり、評価や裁きではなく、作用の“向き”を表しているのです。
また、スートラでは「結果」という言葉が使われていますが、それは外から与えられる報酬や罰を意味する訳ではありません。行為や心の傾向の結果として、その自然な流れとして、何らかの経験が生じる、ということです。その経験が、心身を整える方向であれば、「快」として感じられ、乱れや緊張を強める方向であれば「苦」として感じるのです。
こうした理解を踏まえて、本節を訳すと「それらは、快または苦という経験をもたらす。心身を清らかにするものが原因であれば快いものとなり、反対であれば、苦しいものとなる。」となります。
第14節は輪廻や罰の話ではなく、「今この瞬間にも、私たちの行為や心の傾向が、どのように経験の質を形づくっているか」を示す、非常に実践的な教えなのです。

ヨーガスートラ第2章(本節までの訳)
第1節:タパス(肉体を浄化して整えること)、スヴァーディヤーヤ (知的な理解を深めること)、イーシュワラ プラニダーナ(神に委ねること)。それらの実践によりヨガを成し遂げることができる。
第2節:
その目的は、サマーディの状態に至るとともに、クレーシャ(苦悩や煩悩)を弱めていくことである。
第3節:
アヴィディヤ(無知)、アスミタ(我執)、ラーガ(執着)、ドヴェーシャ(嫌悪)、アビニヴェーシャ(生命への固執)が、クレーシャ(苦悩や煩悩)の源である。
第4節:
アヴィディヤ(無知)は、他のクレーシャ(苦悩や煩悩)のもととなる。眠りに落ちているかのようにもろく弱く、高貴なものとの繋がりが断たれている状態である。
第5節:
永遠ではないもの、不純なもの、苦しみ、自己の本質でないもの。永遠なるもの、純粋なもの、安楽、自己の本質。それらについて、誤って認識しているのがアヴィディヤ(無知)である。
第6節:
アスミタ(我執)は、「ドゥリグ(見る者、観照者)」と「ダルシャナ(見る働き、認識の作用)」を一体視してしまうことである。
第7節:
スカ(快楽)の後に残るもの(潜在印象)があり、それがラーガ(執着)となる。
第8節:
ドゥッカ(苦しみの経験)の後に残るもの(潜在的印象)があり、それがドヴェーシャ(嫌悪)となる。
第9節:
本能的なもので、賢者であっても同じように深く根付いているものがあり、それが「アビニヴェーシャ(強い執着)」である。
第10節:
それら(クレシャ)は、非物質的なものであり、手放して、根源に戻すべきものである。
第11節:
それらの働き(クレシャに由来する、繰り返される心の反応パターン )は、瞑想によって手放すべきものである 。
第12節:
クレシャによってカルマが蓄積する。それを認識しているか否かに関わらず、そこから新たな経験が生じる。
第13節:
カルマの根(クレシャを原因とする潜在的な要因 )があると、それが熟し、その結果として、生きて経験をするという状態になる。
第14節:
それらは、快または苦という経験をもたらす。心身を清らかにするものが原因であれば快いものとなり、反対であれば、苦しいものとなる。