
*** AIによる解説 ***
原文:
ध्यानहेयास्तद्वृत्तयः
読み方:
ディヤーナ・ヘーヤー・タッド・ヴリッタヤハ
英訳:
The fluctuations (vṛttis) of those (kleśas) are to be eliminated through meditation.
和訳:
それら(クレシャ)の働きは、瞑想によって手放されるべきものである
各単語の意味:
ध्यान (dhyāna、ディヤーナ):瞑想
हेयाः (heyāḥ、ヘーヤー):手放すべきもの、除去されるべきもの
तद् (tad、タッド):それら(前節で言及されたクレシャを指す)
वृत्तयः (vṛttayaḥ、ヴリッタヤハ):「動き」「作用」「働き」。ここではクレシャの心内活動や反応様式を指す。
解説:
この節は、前の第9節・第10節で語られた「クレシャ(煩悩)」がどのようにして対処されるべきかという流れの中にあります。
第10節では、それらクレシャは「非物質的で微細なものであり、根源に戻すことで手放すべきものである」と説明しました。
そしてこの第11節では、「そのクレシャの活動(vṛttis)は、瞑想(dhyāna)によって手放されるべきである」と明示しています。
つまり、クレシャの働きが微細になったとき、それをさらに止滅させるには「瞑想」が必要だという方針をはっきり述べているのです。
この節は、後のサマーディ(瞑想の深化)や、クレシャを克服する実践的な方法へとつながる重要な転換点です。
*** ここまではAIによる解説。以下はそれを踏まえての解釈です ***

AIの訳で「クレシャの活動(vṛttis)」とされているところですが、「ヴリッティvṛtti」には「活動」「作用」という意味のほかに、「回転するもの」「反復するもの」「循環的なパターン」というニュアンスも含まれています。(ヨーガ哲学では「習慣的な思考パターン」や「繰り返される心の働き」を意味する場合が多い)
つまり、本節で言わんとしているのは、クレシャの働きは繰り返される心のパターンであり、それらを瞑想のプロセスを通じて手放していくべきである、ということです。
これは、ヨーガ・スートラ第1章第2節「ヨーガとは心の働き(citta-vṛtti)を止滅することである」と通ずる内容で、クレシャを鎮める実践の方法論がより鮮明となります。
つまり「瞑想」は単に一時的な静けさを得るものではなく、心に深く根づいた「反復する煩悩のパターン」を根こそぎ解消するための方法ということなのです。
以上を踏まえて本節を訳すと、以下のようになります。
それらの働き(クレシャに由来する、繰り返される心の反応パターン )は、瞑想によって手放すべきものである 。

ヨーガスートラ第2章(本節までの訳)
第1節:タパス(肉体を浄化して整えること)、スヴァーディヤーヤ (知的な理解を深めること)、イーシュワラ プラニダーナ(神に委ねること)。それらの実践によりヨガを成し遂げることができる。
第2節:
その目的は、サマーディの状態に至るとともに、クレーシャ(苦悩や煩悩)を弱めていくことである。
第3節:
アヴィディヤ(無知)、アスミタ(我執)、ラーガ(執着)、ドヴェーシャ(嫌悪)、アビニヴェーシャ(生命への固執)が、クレーシャ(苦悩や煩悩)の源である。
第4節:
アヴィディヤ(無知)は、他のクレーシャ(苦悩や煩悩)のもととなる。眠りに落ちているかのようにもろく弱く、高貴なものとの繋がりが断たれている状態である。
第5節:
永遠ではないもの、不純なもの、苦しみ、自己の本質でないもの。永遠なるもの、純粋なもの、安楽、自己の本質。それらについて、誤って認識しているのがアヴィディヤ(無知)である。
第6節:
アスミタ(我執)は、「ドゥリグ(見る者、観照者)」と「ダルシャナ(見る働き、認識の作用)」を一体視してしまうことである。
第7節:
スカ(快楽)の後に残るもの(潜在印象)があり、それがラーガ(執着)となる。
第8節:
ドゥッカ(苦しみの経験)の後に残るもの(潜在的印象)があり、それがドヴェーシャ(嫌悪)となる。
第9節:
本能的なもので、賢者であっても同じように深く根付いているものがあり、それが「アビニヴェーシャ(強い執着)」である。
第10節:
それら(クレシャ)は、非物質的なものであり、手放して、根源に戻すべきものである。
第11節:
それらの働き(クレシャに由来する、繰り返される心の反応パターン )は、瞑想によって手放すべきものである 。