ヨーガスートラの原文はインド古語(サンスクリット語)で、その訳文もいろいろあります。ここでは、下記の4冊の訳文を参考にしながら、読み解いていきます。

参考書籍(番号①~④が書籍と訳文の対応を示します)
①やさしく学ぶYOGA哲学 ヨーガスートラ(向井田みお著)
②解説ヨーガ・スートラ(佐保田鶴治著)
③インテグラル・ヨーガ パタンジャリのヨーガ・スートラ(スワミ・サッチダーナンダ著)
④現代人のためのヨーガ・スートラ(グレゴール・メーレ著)

【ヨーガスートラ:1章48節】

①心が静まる時、真実の知恵が現れます。

②内面の清澄が生じたならば、そこに真理のみを保有する直観智が発現する。

③これがリタムバラー・プラジュニャー、すなわち絶対的な真理意識である。

④そこで叡智が真実となる。

原文:
 リタムバラー・タットラ・プラジュニャー

語句の意味:
 リタムバラー:ポイント2参照

 タットラ:そこに、その場合に、それ故に など

 プラジュニャー:叡智、智恵 など

ポイント1
前節を受けて、本節では「ニルヴィチャーラ」になったとき、すなわち、ヴィチャーラ(微細な感覚、心的感覚)がなくなった状態のことを説明しています。

ポイント2
リタムバラーは、「聖なる境地、真実の理解、真理」などを意味する「Rta(リタ)」と、「(何かに)至ること、得ること、留まること、成すこと」などを表す「bhara(バラ)」とを組み合わせた言葉です。

したがって、リタムバラーは、聖なる境地に至った状態を指しており、前節の境地(ニルヴィチャーラを確立することで、スピリットを覆っていたものが無くなり、澄みわたった状態)を指していると思われます。

ポイント3
従来の訳では、リタムバラーとプラジュニャーを組み合わせて合成語のように解釈しているものもあります。しかし、それならば語順をタットラ・リタムバラー・プラジュニャーとすべきでしょう。実際には、リタムバラー・タットラ・プラジュニャーとなっているので、「リタムバラー、その場合に、プラジュニャー」というように訳す方が自然な解釈です。

ポイント4
以上のことを考慮して、本節を訳すと、下記のような文章になります。

『そのような聖なる境地に至ると、そこには叡智がある』

【ここまでのまとめ(ボディ、マインド、スピリットの視点での訳)】

1章1節:これから、ヨガの解説をする。

1章2節:ヨガとは、マインドの働き(=心の作用)を解消することである。

1章3節:それができると、スピリットが本来の状態になる。

1章4節:普段は、スピリットとマインドが一体化して、区別がつかなくなっている。

1章5節:マインドの働きには、5種類あり、それらは人を悩み苦しませたり、そうでなかったりする。

1章6節:マインドの5つの働きとは「①正しい認識、②誤った認識、③言葉による概念や想像(ヴィカルパ)、④放心状態(ニドラー)、⑤感覚の保持(スムリティ)」である。

1章7節:正しい認識には「①自分の経験に基づき、その経験から直接分かったこと、②経験から類推して分かったこと、③経験に基づいたものではなく、本などから学んだこと」の3種類がある。

1章8節:誤った認識とは、何かを誤って解釈したことによる、正しくない理解である。

1章9節:実際には存在していなくても、言葉で理解して想像する。それがヴィカルパ(言葉による概念や想像)である。

1章10節:ニドラー(放心状態)は、何かに依存していて、想念が生まれない状態である。

1章11節:スムリティ(感覚の保持)は、何かを経験して感じたことが、消えることなく残存することである。

1章12節:マインドの働き(=心の作用)は、アビャーサとヴァイラーギャによって解消される。

1章13節:アビャーサは、ある状態にとどまろうとする取り組みを、繰り返し行うことである。

1章14節:その状態は、時間をかけて、中断することなく、意識を向けて、繰り返し実践することで、確固たる境地となる。

1章15節:自ら経験したことに対して、あるいは、自らは経験せずに伝え聞いたりしたことに対して、何かをしたいという欲求を克服して、対象をありのまま受け入れる。そのような意識がヴァイラーギャである。

1章16節:最高のヴァイラーギャは、純粋なる意識(プルシャあるいはスピリット)の視点であり、その視点に至れば、物質世界でのもろもろの事象(グナ)にとらわれなくなる。

1章17節:身体的感覚に関すること、心的感覚に関すること、究極の幸せの境地に関すること、自我の意識に関すること、それらを知ることで、完全なる理解に至る。

1章18節:あとは、想念を終わらせることを繰り返し行う。それは以前から存在しているサンスカーラの残りである。

1章19節:想念が生まれるのは、霊的な存在と、物質的な要素とが結合することによる。

1章20節:何かをしたいと思って、何か新たな行動をすると、それがこれまでの記憶や経験と結びついて、以前とは異なる新たな想念となる。

1章21節:獲得された想念により、とても強い思いで、さらに何かをしたくなる。

1章22節:想念とは異なるものがある。それは、穏やかなリラックスした状態、かつ、とらわれることのない中立な状態で、想念を超えたところにある。

1章23節:それはまた、イーシュヴァラ(全てを司る神的な聖なる存在)にすべてを委ねるということでもある。

1章24節:何らかの思考(クレーシャ)が生じる。何らかの行為(カルマ)をする。それらの結果(ヴィパーカ)が生じる。それがまた新たな思考や行為の原因(アーシャヤイル)となる。そのような事柄に影響を受けないものがあり、それがプルシャ(意識の源・真我)である。プルシャは、イーシュヴァラ(全てを司る神的な聖なる存在)が特別な形で現れたものである。

1章25節:そこ(プルシャ)は、最上の全ての知の源泉である。

1章26節:それ(プルシャ)は、太古からもともと存在している。それはまた、知を授ける存在であり、時間によって制約されることがない。

1章27節:それ(プルシャ)は、言わば「命をもたらすもの」である。

1章28節:それを繰り返し唱え、その働きについて想像し熟慮せよ。

1章29節:それにより、知性の中心へと到達し、同時に、障害となるものは無くなっていく。

1章30節:病を患っている状態、無関心にただ反応しているだけの状態、何かを疑っている状態、意識が散漫で不注意な状態、やる気がなく怠惰な状態、不摂生で自制できない状態、誤った観念で混乱している状態。それらは、基盤となるものがなく、不安定な状態のときに見られる。それはチッタ(心・マインド)の動揺によるものであり、それが障害である。

1章31節:心に生じる苦悩や失意、肉体的に不安定な状態は、呼吸の乱れと共に生じる。

1章32節:それを防ぐために、唯一の真理にとどまる取り組みを繰り返し行う。

1章33節:衆生の楽を望む慈しみの心。衆生の苦を抜いてあげたいと思う憐れみの心。衆生の喜ばしい状態を共に喜ぶ心。差別や執着を捨て、すべてを平等に観る心。それらは、安楽、苦痛、善行、悪行に、それぞれ対応する。それらを念想することで、チッタ(心・マインド)は清浄になっていく。

1章34節:(チッタの乱れを解消するには)息を吐く、止めて保つ、そのように呼吸。

1章35節:(チッタの乱れを解消するには)生成され、存在している、心の反応に対して、安定した不動の状態にとどまりつつ、意識を向ける。

1章36節:(チッタの乱れを解消するには)悲しみや苦悩から離れよ。そして、自己の内にある輝かしい知性を働かせよ。

1章37節:(チッタの乱れを解消するには)チッタを、欲求の対象から離れるようにする。

1章38節:夢を見ているとき、放心状態のとき、そこに滞留していることに気づくことによって(チッタの乱れを解消できる)

1章39節:さらにまた、適切になされた瞑想によっても(チッタの乱れを解消できる)

1章40節:(チッタの乱れに関して)最も些細なことから、最も大きなことまで、極限まで、これを克服していく。

1章41節:心の乱れ(チッタ・ブリッティ)が静まってくると、本来の状態になっていく。それは宝珠のごとき素晴らしきもの。知覚する者、知覚すること、知覚される物。それらの動きは止まり、それらは出会い混ざり合っていく。それがサマーパッティである。

1章42節:サマーパッティにおいて、ヴィカルパ(言葉による概念や想像)は、ヴィタルカ(身体的感覚)を伴って、混ざり合っていく。

1章43節:スムリティ(保持されていた感覚)が完全に浄化されると、本来の空の状態になる。あたかも、事物・対象のすべてが、ただ光り輝いているようになる。それはヴィタルカ(身体的感覚)がなくなった状態、すなわちニルヴィタルカである。

1章44節:ヴィチャーラ(微細な感覚、心的感覚)を伴うときも同様であり、ニルヴィチャーラ(ヴィチャーラがなくなった状態)となる。そして、微細な感覚の領域に関することが解き明かされる。

1章45節:微細な感覚の領域、それもまた一切の区別や差異がない無の状態(アリンガ)へと至る。

1章46節:それらはまさしく、ビージャ(あらゆる現象を産み出すタネのごときもの)を伴ってのサマーディ(三昧)である。

1章47節:ニルヴィチャーラを確立することで、スピリットを覆っていたものが無くなり、澄みわたったものとなる。

1章48節:そのような聖なる境地に至ると、そこには叡智がある。