ヨーガスートラの原文はインド古語(サンスクリット語)で、その訳文もいろいろあります。ここでは、下記の4冊の訳文を参考にしながら、読み解いていきます。
参考書籍(番号①~④が書籍と訳文の対応を示します)
①やさしく学ぶYOGA哲学 ヨーガスートラ(向井田みお著)
②解説ヨーガ・スートラ(佐保田鶴治著)
③インテグラル・ヨーガ パタンジャリのヨーガ・スートラ(スワミ・サッチダーナンダ著)
④現代人のためのヨーガ・スートラ(グレゴール・メーレ著)
【ヨーガスートラ:1章43節】
①記憶が(主観から)正しく改められ、物事の本質を知る時、考えに映る対象はまるで無くなったようになります。その時、考えの本質(意識の源)がはっきりします。本質に至る瞑想を、ニルヴィタルカ・サマーディ(分析を終えた後の瞑想)といいます。
②定の心境がさらに深まって、分別知の記憶要素が消えてしまうと、意識の自体がなくなってしまったかのようで、客体だけがひとり現われている。これが無尋定である。
③記憶が十分に浄化されると、名称と属性の境界がなくなり、集中対象の知がひとり輝き出る。これがニルヴィタルカ・サマーディすなわち思慮を伴わないサマーディ(無尋三昧)である。
④記憶が浄化されれば、心の本来の状態がなくなってしまったかのように、対象だけが光り輝いて現れる。これが超熟考のサマーパッティである。
原文:
スムリティ・パリシュッダウ・スヴァルーパ・シューニャ・イヴァ・アルタ・マートラ・ニルバーサー・ニルヴィタルカ
語句の意味:
スムリティ:記憶、想起、権威ある聖伝文学、伝統的法典 など
パリシュッダウ:完全な浄化、免罪、放免、クリアにすること、 など
スヴァルーパ:自身の本来の状態、本来の姿、もともとの特質 など
シューニャ: 空、空虚な、無い、存在しない、虚しい など
イヴァ:あたかも、~のように、~のごとく、言わば、約、ほとんど、実に など
アルタ:事物、対象。あるいは、それらを使うこと、利用すること など
マートラ:何かの大きさや規模、あるいは、ただ~のみが存在すること、すべてが~となる など
ニルバーサー:光り輝いている様子、何かが現れ出てくること など
ニルヴィタルカ:
ニル=無、存在しない、欠いている、など意味する接頭語
ヴィタルカ=推測、想像、疑い、考慮、熟慮など、粗雑な心の作用、あるいは、身体的な感覚作用
ポイント1
文頭の「スムリティ」は1章11節に出てきた言葉で、何かを経験して感じたことが、消えることなく残存すること。すなわち「保持されていた感覚」がスムリティです。次の「パリシュッダウ」は、完全に浄化すること。したがって、スムリティ・パリシュッダウは、「スムリティ(保持されていた感覚)を完全に浄化する」ということです。
ポイント2
「スヴァルーパ」は、本来の状態を意味する言葉。1章3節でも使われていて、そこでも「本来の状態」と訳しています。「シューニャ」は、般若心経に出てくる色即是空の「空」と同じ。したがって、スヴァルーパ・シューニャで、「本来の空の状態」という意味合いになります。
ポイント3
「イヴァ・アルタ・マートラ・ニルバーサー」の部分は、逐語的に訳すと「あたかも、事物・対象、ただ~のみとなる、光り輝いている」という意味合いで、分かりやすい文章にすると、「あたかも、事物・対象のすべてが、ただ光り輝いているようになる」いう感じです。
ポイント4
ニルヴィタルカは、ヴィタルカが無い状態のこと。前節において、ヴィタルカはサマーパッティで解消されていくことが述べられていました。本節では、それが完全に解消された境地を述べているようです。
以上の内容をまとめて、本節を訳すと、下記のような文章になります。
「スムリティ(保持されていた感覚)が完全に浄化されると、本来の空の状態になる。あたかも、事物・対象のすべてが、ただ光り輝いているようになる。それはヴィタルカ(身体的感覚)がなくなった状態、すなわちニルヴィタルカである」
【ここまでのまとめ(ボディ、マインド、スピリットの視点での訳)】
1章1節:これから、ヨガの解説をする。
1章2節:ヨガとは、マインドの働き(=心の作用)を解消することである。
1章3節:それができると、スピリットが本来の状態になる。
1章4節:普段は、スピリットとマインドが一体化して、区別がつかなくなっている。
1章5節:マインドの働きには、5種類あり、それらは人を悩み苦しませたり、そうでなかったりする。
1章6節:マインドの5つの働きとは「①正しい認識、②誤った認識、③言葉による概念や想像(ヴィカルパ)、④放心状態(ニドラー)、⑤感覚の保持(スムリティ)」である。
1章7節:正しい認識には「①自分の経験に基づき、その経験から直接分かったこと、②経験から類推して分かったこと、③経験に基づいたものではなく、本などから学んだこと」の3種類がある。
1章8節:誤った認識とは、何かを誤って解釈したことによる、正しくない理解である。
1章9節:実際には存在していなくても、言葉で理解して想像する。それがヴィカルパ(言葉による概念や想像)である。
1章10節:ニドラー(放心状態)は、何かに依存していて、想念が生まれない状態である。
1章11節:スムリティ(感覚の保持)は、何かを経験して感じたことが、消えることなく残存することである。
1章12節:マインドの働き(=心の作用)は、アビャーサとヴァイラーギャによって解消される。
1章13節:アビャーサは、ある状態にとどまろうとする取り組みを、繰り返し行うことである。
1章14節:その状態は、時間をかけて、中断することなく、意識を向けて、繰り返し実践することで、確固たる境地となる。
1章15節:自ら経験したことに対して、あるいは、自らは経験せずに伝え聞いたりしたことに対して、何かをしたいという欲求を克服して、対象をありのまま受け入れる。そのような意識がヴァイラーギャである。
1章16節:最高のヴァイラーギャは、純粋なる意識(プルシャあるいはスピリット)の視点であり、その視点に至れば、物質世界でのもろもろの事象(グナ)にとらわれなくなる。
1章17節:身体的感覚に関すること、心的感覚に関すること、究極の幸せの境地に関すること、自我の意識に関すること、それらを知ることで、完全なる理解に至る。
1章18節:あとは、想念を終わらせることを繰り返し行う。それは以前から存在しているサンスカーラの残りである。
1章19節:想念が生まれるのは、霊的な存在と、物質的な要素とが結合することによる。
1章20節:何かをしたいと思って、何か新たな行動をすると、それがこれまでの記憶や経験と結びついて、以前とは異なる新たな想念となる。
1章21節:獲得された想念により、とても強い思いで、さらに何かをしたくなる。
1章22節:想念とは異なるものがある。それは、穏やかなリラックスした状態、かつ、とらわれることのない中立な状態で、想念を超えたところにある。
1章23節:それはまた、イーシュヴァラ(全てを司る神的な聖なる存在)にすべてを委ねるということでもある。
1章24節:何らかの思考(クレーシャ)が生じる。何らかの行為(カルマ)をする。それらの結果(ヴィパーカ)が生じる。それがまた新たな思考や行為の原因(アーシャヤイル)となる。そのような事柄に影響を受けないものがあり、それがプルシャ(意識の源・真我)である。プルシャは、イーシュヴァラ(全てを司る神的な聖なる存在)が特別な形で現れたものである。
1章25節:そこ(プルシャ)は、最上の全ての知の源泉である。
1章26節:それ(プルシャ)は、太古からもともと存在している。それはまた、知を授ける存在であり、時間によって制約されることがない。
1章27節:それ(プルシャ)は、言わば「命をもたらすもの」である。
1章28節:それを繰り返し唱え、その働きについて想像し熟慮せよ。
1章29節:それにより、知性の中心へと到達し、同時に、障害となるものは無くなっていく。
1章30節:病を患っている状態、無関心にただ反応しているだけの状態、何かを疑っている状態、意識が散漫で不注意な状態、やる気がなく怠惰な状態、不摂生で自制できない状態、誤った観念で混乱している状態。それらは、基盤となるものがなく、不安定な状態のときに見られる。それはチッタ(心・マインド)の動揺によるものであり、それが障害である。
1章31節:心に生じる苦悩や失意、肉体的に不安定な状態は、呼吸の乱れと共に生じる。
1章32節:それを防ぐために、唯一の真理にとどまる取り組みを繰り返し行う。
1章33節:衆生の楽を望む慈しみの心。衆生の苦を抜いてあげたいと思う憐れみの心。衆生の喜ばしい状態を共に喜ぶ心。差別や執着を捨て、すべてを平等に観る心。それらは、安楽、苦痛、善行、悪行に、それぞれ対応する。それらを念想することで、チッタ(心・マインド)は清浄になっていく。
1章34節:(チッタの乱れを解消するには)息を吐く、止めて保つ、そのように呼吸。
1章35節:(チッタの乱れを解消するには)生成され、存在している、心の反応に対して、安定した不動の状態にとどまりつつ、意識を向ける。
1章36節:(チッタの乱れを解消するには)悲しみや苦悩から離れよ。そして、自己の内にある輝かしい知性を働かせよ。
1章37節:(チッタの乱れを解消するには)チッタを、欲求の対象から離れるようにする。
1章38節:夢を見ているとき、放心状態のとき、そこに滞留していることに気づくことによって(チッタの乱れを解消できる)
1章39節:さらにまた、適切になされた瞑想によっても(チッタの乱れを解消できる)
1章40節:(チッタの乱れに関して)最も些細なことから、最も大きなことまで、極限まで、これを克服していく。
1章41節:心の乱れ(チッタ・ブリッティ)が静まってくると、本来の状態になっていく。それは宝珠のごとき素晴らしきもの。知覚する者、知覚すること、知覚される物。それらの動きは止まり、それらは出会い混ざり合っていく。それがサマーパッティである。
1章42節:サマーパッティにおいて、ヴィカルパ(言葉による概念や想像)は、ヴィタルカ(身体的感覚)を伴って、混ざり合っていく。
1章43節:スムリティ(保持されていた感覚)が完全に浄化されると、本来の空の状態になる。あたかも、事物・対象のすべてが、ただ光り輝いているようになる。それはヴィタルカ(身体的感覚)がなくなった状態、すなわちニルヴィタルカである。