
*** AIによる解説 ***
原文:
सति मूले तद्विपाको जात्यायुर्भोगाः॥
sati mūle tad-vipākaḥ jāty-āyur-bhogāḥ
読み方:
サティ ムーレ タッドヴィパーカハ ジャーティ アーユル ボーガーハ
英訳:
"When the root exists, its fruits are birth, lifespan, and experiences."
和訳:
根(原因)が存在するかぎり、その熟した結果は、生(状態)、寿命、そして経験として現れる。
各単語の意味:
सति (sati):存在すること、ある状態にあること(語根 √as「存在する」)
→ 「〜が存在する時」「〜がある間は」
मूले (mūle):根に、根本に(「mūla」=根、基盤)
→ 前節の「クレシャ・ムーラハ」とも呼応しており、ここではカルマやクレシャの「根源的原因」を指す。
तद्विपाकः (tad-vipākaḥ):「それの熟した結果」
→ 「tad(それ)」はカルマを指す。「vipāka」は「熟成」「果報」「結果」を意味し、カルマの「実る結果」=果報。
जाति (jāti):生まれ、存在の種類、状態。
→ 「どのような生に生まれるか」「存在の質」など。ここでは「生まれ方」だけでなく「生の性質」とも解釈できる。
आयुः (āyuḥ):寿命、生命の期間、持続期間。
भोगाः (bhogāḥ):経験、享受、体験(語根 √bhuj=「味わう」「経験する」)
→ 喜びや苦しみ、すべての体験を含む。
解説:
前の十二節で、カルマの蓄積はクレシャを根として生じると説かれました。十三節では、そのカルマがどのように結果として現れるかを説明しています。カルマの根(クレシャ)が残るかぎり、そのカルマは必ず熟し、三つの形で現れます。
一つ目は jāti、生や状態です。これは伝統的には来世の生まれを意味しますが、より心理的に読み取れば、カルマが「どのような状態として自分に現れるか」を示します。
二つ目は āyus、寿命です。これも生物学的寿命というより、カルマ由来の傾向や状態がどのくらい続くかという期間として理解できます。
三つ目は bhoga、経験です。これは苦しみや喜びを含む、日常で味わうすべての経験を指します。
まとめると、この節は次のような意味になります。
カルマの根(原因)が存在しているかぎり、そのカルマは必ず熟し、新たな状態を生み、一定期間続き、そして経験として味わわれる。
第12節が「カルマはクレシャによって蓄積し、新たな経験を生じる」と説明したのに対し、第13節は「その経験がどんな形で現れるか」を示しています。両者を合わせると、クレシャによってカルマが生まれ、カルマが新たな状態と経験を生み、さらにそれがクレシャを強めていくという循環が浮かび上がります。
*** ここまではAIによる解説。以下はそれを踏まえての解釈です ***

前半の「サティ ムーレ」の部分は「根っこが存在しているとき」という意味。ここでの「根っこ」とは、カルマの蓄積について述べた前節を受けていて、クレシャを原因とする潜在的な要因のこと。すなわち「カルマの根」と言っていいでしょう。
中盤の「タッドヴィパーカハ」の部分ですが、ヴィパーカ(vipāka)の語源的な感覚は「内側でじっくりと時間をかけて熟するプロセス」です。したがって、前半と合わせて「カルマの根があると、それが内側で熟し、その結果・・・」という意味合いになります。
後半の「ジャーティ アーユル ボーガーハ」の部分ですが、AIの訳では、3単語の並列「生、寿命、経験」としています。この訳の背景には、輪廻的な思想があり、本節は来世の生まれのことを説明しているという発想があります。しかしながら、そのような思想を手放して、この部分を直訳すると「状態、生きている、経験」という意味合いです。それらを繋げると「生きて経験するという状態」となり、こちらの方が自然な訳のように思います。
以上を踏まえて本節を訳すと以下のようになります。
カルマの根(クレシャを原因とする潜在的な要因 )があると、それが熟し、その結果として、生きて経験をするという状態になる。
★12月は多忙のため、ブログの更新はお休み。次回は2026年1月15日に更新の予定です。

ヨーガスートラ第2章(本節までの訳)
第1節:タパス(肉体を浄化して整えること)、スヴァーディヤーヤ (知的な理解を深めること)、イーシュワラ プラニダーナ(神に委ねること)。それらの実践によりヨガを成し遂げることができる。
第2節:
その目的は、サマーディの状態に至るとともに、クレーシャ(苦悩や煩悩)を弱めていくことである。
第3節:
アヴィディヤ(無知)、アスミタ(我執)、ラーガ(執着)、ドヴェーシャ(嫌悪)、アビニヴェーシャ(生命への固執)が、クレーシャ(苦悩や煩悩)の源である。
第4節:
アヴィディヤ(無知)は、他のクレーシャ(苦悩や煩悩)のもととなる。眠りに落ちているかのようにもろく弱く、高貴なものとの繋がりが断たれている状態である。
第5節:
永遠ではないもの、不純なもの、苦しみ、自己の本質でないもの。永遠なるもの、純粋なもの、安楽、自己の本質。それらについて、誤って認識しているのがアヴィディヤ(無知)である。
第6節:
アスミタ(我執)は、「ドゥリグ(見る者、観照者)」と「ダルシャナ(見る働き、認識の作用)」を一体視してしまうことである。
第7節:
スカ(快楽)の後に残るもの(潜在印象)があり、それがラーガ(執着)となる。
第8節:
ドゥッカ(苦しみの経験)の後に残るもの(潜在的印象)があり、それがドヴェーシャ(嫌悪)となる。
第9節:
本能的なもので、賢者であっても同じように深く根付いているものがあり、それが「アビニヴェーシャ(強い執着)」である。
第10節:
それら(クレシャ)は、非物質的なものであり、手放して、根源に戻すべきものである。
第11節:
それらの働き(クレシャに由来する、繰り返される心の反応パターン )は、瞑想によって手放すべきものである 。
第12節:
クレシャによってカルマが蓄積する。それを認識しているか否かに関わらず、そこから新たな経験が生じる。
第13節:
カルマの根(クレシャを原因とする潜在的な要因 )があると、それが熟し、その結果として、生きて経験をするという状態になる。