
*** AIによる解説 ***
原文:
दृग्दर्शनशक्त्योरेकात्मतेवास्मिता॥६॥
読み方:
ドゥリグダルシャナシャクティヨーレーカートマテーヴァーアスミター
英訳:
Egoism (Asmita) is the identification of the power of the Seer (Purusha) and the power of seeing (Buddhi) as the same.
和訳:
エゴ(アスミター)とは、「見る者(プルシャ)」の力と「見る働き(ブッディ=知性)」の力とを同一視してしまうことである。
各単語の日本語での意味:
दृक् (Dṛk) : 見る者、観照者(プルシャ、真我)
दर्शनशक्ति (Darśana-śakti) : 見る働き、知性の力(ブッディ)
उरेकात्मता (Ekatmatā) : 一体であること、同一視すること
एव (Eva) : まさに、それだけ
अस्मिता (Asmita) : 我執、自我意識、エゴ("私" という感覚)
解説:
この節では、「アスミター(我執、エゴ)」の本質が説明されています。
ヨーガ哲学では、「見る者(プルシャ)=純粋な意識」と「見る働き(ブッディ)=心の中で物事を認識し判断する知性」とは、本来異なるものとされます。
しかし、私たちはしばしばこの2つを混同し、「自分が見ている」「考えている」「判断している」と思い込んでしまいます。この「観照者(プルシャ)」と「見る力(ブッディ)」を同一視する誤認が、アスミター(エゴ)なのです。
つまり、「私は体である」「私は感情や思考である」「私が世界を見ている」といった感覚は、すべてアスミターから来るものであり、ヨーガの実践によりこの誤認に気づき、解消していくことが重要です。
このスートラは、私たちが抱える“自己”という感覚の根本的な誤りに気づかせ、より深い自己認識への扉を開く鍵となる節です。
*** ここまではAIによる解説。以下はそれを踏まえての解釈です ***

ポイント1
原文のカタカナ表記を単語ごとに分けてみましょう。
ドゥリグ・ダルシャナ・シャクティヨー・エーカートマター・エーヴァー・アスミタ
それらの基本的な意味は下記の通り。
ドゥリグ(観照者、見る者、プルシャ)
ダルシャナ(認識の作用、観ること)
シャクティ(働き、能力、力)
※シャクティヨーは、シャクティの二重属格で「二つのシャクティ」を意味する)
エーカートマター(一体視、一体化、同一視)
エーヴァー(まさに、それこそが)
アスミタ (我執 、自我意識、エゴ )
本節で言わんとすることは、「ドゥリグ(観照者)」と「ダルシャナ(認識の作用)」の二つがあり、それぞれの「働き(シャクティ)」を一体視すること、それこそがアスミタ(我執)であるということです。
ポイント2
「ドゥリグ」の基本的な意味は「観る者、見る存在」などで、ヨーガ哲学における「プルシャ(Purusha)=純粋な意識、観照者」に相当します。
プルシャ(Purusha)は、純粋意識であり、いわゆる「自我」ではなく「真の自己」です。それは、ただ見ているだけで、一切の判断をしない存在。ただ存在し続ける意識の源のようなもの。例えて言えば、カメラのレンズを通して、ただ見ているだけの意識であり、「ただ気づいている意識そのもの」です。
一方で、「ダルシャナ」の基本的な意味は、「見るという行為」「認識すること」などであり、ヨーガ哲学におけるブッディ(知性・認識の機能)に相当します。ダルシャナは、心や知性のレンズを通して「何かを認識する行為」であり、そこには判断が伴います。
・ドゥリグ = 観照者・プルシャ(真の自己) = 不変で純粋な意識そのもの
・ダルシャナ = 見る力・知性の働き(ブッディ) = この世を形作る物やその働き(プラクリティ)の一部であり、変化するもの
ポイント3
ヨーガでは、「純粋な意識(プルシャ)」と「この世を形作る物やその働き(ブッディ、マナス、アハンカーラなど)」を明確に分けて考えることが解脱への道としています。ドゥリグとダルシャナの関係も同じこと。「ヨガの道しるべ」では、そのような関係性を「スピリット」と「ボディ&マインド」という言葉で説明しています。
「スピリット、ドゥリグ、プルシャ」は同じものを指しており、すべて純粋なる意識の側。一方、「ボディ、マインド、ブッディ、ダルシャナ」は、この世を形作るもの(プラクリティ)の現れ。それらの違いを知り、自己の本質が「純粋なる意識」であることを理解することがヨガなのです。
以上を踏まえて本節を訳すと、以下のようになります。
アスミタ(我執)は、「ドゥリグ(見る者、観照者)」と「ダルシャナ(見る働き、認識の作用)」を一体視してしまうことである。

ヨーガスートラ第2章(本節までの訳)
第1節:タパス(肉体を浄化して整えること)、スヴァーディヤーヤ (知的な理解を深めること)、イーシュワラ プラニダーナ(神に委ねること)。それらの実践によりヨガを成し遂げることができる。
第2節:
その目的は、サマーディの状態に至るとともに、クレーシャ(苦悩や煩悩)を弱めていくことである。
第3節:
アヴィディヤ(無知)、アスミタ(我執)、ラーガ(執着)、ドヴェーシャ(嫌悪)、アビニヴェーシャ(生命への固執)が、クレーシャ(苦悩や煩悩)の源である。
第4節:
アヴィディヤ(無知)は、他のクレーシャ(苦悩や煩悩)のもととなる。眠りに落ちているかのようにもろく弱く、高貴なものとの繋がりが断たれている状態である。
第5節:
永遠ではないもの、不純なもの、苦しみ、自己の本質でないもの。永遠なるもの、純粋なもの、安楽、自己の本質。それらについて、誤って認識しているのがアヴィディヤ(無知)である。
第6節:
アスミタ(我執)は、「ドゥリグ(見る者、観照者)」と「ダルシャナ(見る働き、認識の作用)」を一体視してしまうことである。