自分を知ること、自分の本質に目覚めていくこと。それがヨガ。究極的には、自分と神が一体であること(梵我一如)を理解して、その意識に目覚めていく。そのようなことを、単なる知的な理解ではなく、心と体を通じた全身の感覚として知覚した状態(サマディ)が、ヨガの目指すところです。

そこまで求めてヨガをしている人は、あまりいないかもしれません。でも「自分を知ること」は、すべての人にとって、日々の生活において、とてもとても役に立つ視点なのです。

たとえば、体の不調。インストラクターをしていると、体の不調に対するアドバイスを求められることがよくあります。そのときに「原因に心当たりはありますか?」と聞くと、十中八九は「わかりません」という答えが返ってきます。もちろん、心当たりがあるならば、わざわざ人に聞く必要はないでしょうから、「わかりません」というのは当然の答えです。

でも、現代人の不調の原因の大半は、日々の振る舞いの中にあります。それが分からないということは、自分がしていることに気づいていないから。自分のしていることを観察して、不調の原因となる振る舞いに気づいたら、それを改めればいい。それだけのこと。単純な話です。

でも多く人は、それができない。なぜでしょう?

まず第一に意識して欲しいのは「自分が何をしているのかに、気づいていないこと」に気づくことです。哲学者ソクラテスは、無知であることを自覚すること(無知の知)を説いていましたが、それと似ています。私たちは「自分がしていることに気づいていないこと」に気づいていないのです。

心や体は、反応のパターンを身に付けると、それを自動的に行うようになる。このことは、これまでも何回も説明してきましたが、それはつまり、心や体の働きは自動運転のようなもの。その場その場で必要な行いは、無意識・無自覚のうちに行われている、ということです。

たとえば、箸を持つときに、指の動かし方を特に意識することなく食事ができるのは、自動運転のおかげ。相手の言葉にすぐに対応して、会話のキャッチボールができるのも、自動運転のおかげ。心と体の自動運転機能のおかげで、日々の生活を滞りなく過ごせているのです。

でも人は、自動運転だけの存在でありません。人には「意識」があります。心や体を使うことと、意識を使うことは別のこと。意識を使わなかったら、ただのロボット。人として生きているとは言えません。意識がある。それが命ある存在の証です。

誰だって、生きている以上は、多かれ少なかれ意識を使っています。でもどの程度、意識を使っているかは、個人差がとてもあります。もちろん、ヨガをする人であれば、「意識を使うこと」を意識的に行なって欲しい。

筋肉を動かさないと、体は衰えていきます。喜怒哀楽の経験が少ないと、心の働きは弱くなっていきます。同じように、意識を使わないと、意識の働きも弱くなっていきます。

心や体を使うとき、すでに身に付いたパターンから外れることをするときには、意識の力が必要です。しかし、意識の働きが弱いと、それが苦手になります。

たとえば、新しい機器を使うのが苦手。必要なマニュアルを面倒だからと言って読まない。新しい物や考え方が理解できない。他の人の振る舞いや考えを受け入れない。過去のやり方にとらわれて、新しいスタイルに順応できない。それらはみな、意識の力が衰えているからです。また、心身の不調の原因となっている自らの振る舞いが分からないというのも、意識の働きの弱さの現れです。

ヨガでは、心と体を整えることに時間を割きますが、それは意識の力を高めるため。心や体は自動運転で働いてくれるロボットのようなもの。ロボットの手入れは大切だけど、それがヨガの本質ではありません。

自分を知る。自分がしていること(心や体が自動運転モードで行なっていること)に気づき、それを制御コントロールする側の視点(目覚めている意識)で生きる。それがヨガ的な生き方であり、それが出来た分だけ、心や体に起因する苦しみは無くなっていきます。それが出来た分だけ、命ある存在としての人生を、より豊かに生きることができるようになっていくことでしょう。

「自分がしていることに、気づいていないこと」に気づき、

「心や体を使うことと、意識を使うことは別のこと」であることを理解し、

「意識を使わないと、意識の働きが弱くなっていくこと」を認識し、

「意識を使うことを、意識的に行う」ようにしよう!