前話で説明したように、ボディやマインドは、コンピュータのハードウェアとソフトウェアのようなもので、あらかじめ組み込まれた処理を行うようにできています。実際のところ、日常生活の大半は、その場その場に応じてボディ&マインドが勝手に反応して対処してくれているのです。

それはつまり、私たちは日常生活の大半を、無意識の反応に任せて生きているということ。意識することなく、ただボディ&マインドが反応している。まるで夢遊病者のようなものです。それは決してオーバーな表現ではなく、本当に私たちは夢遊病のように生きていて、そのことに気づいていないのです。

多くの人は「そんなことはない、ちゃんと意識して生きている」と思うことでしょう。でも、本当に日々の行動をちゃんと意識しているのでしょうか?

たとえば、昨日一日を振り返ってみて、意識的に選択した行動がどれくらいあったか考えてみてください。どこに行くかくらいは、意識的に選んだかもしれません。でも選択できることは、もっともっとたくさんあったはずです。

たとえば、食事ひとつをとっても、たくさんの選択があったはず。何をいつ食べるか、というのはもちろんですが、それ以外にも、たとえば、何から食べるか。それを右側の歯で噛むか、左側の歯で噛むか。何回咀嚼するか。そのとき、どこを見るか。何を考えるか。食事をするときの姿勢をどうするか。器を手に持つかどうか。一口ごとに箸を置くかどうか。などなど。

歩いている時も、その歩幅をどうするか。姿勢はどうするか。呼吸と歩みのテンポをどうするか。カバンがあるとすれば、それをどう持つか。目線をどこに向けるか。意識をどこに向けるか。などなど。

よく観察してみると、少なくとも一呼吸するごとに1~2回は、いつでも選択の機会があります。つまり、毎日何万回もの選択のチャンスがあるのです。でも、そのことにほとんど気づいていない。無自覚のうちに、ボディ&マインドの自動的な処理に任せてしまっているのです。それで本当に意識的に生きていると言えるのでしょうか?

自分のしていることに気づいて、意識的な選択をする。それが出来るのは、スピリットの働きがあるからこそです。スピリットは命の源であり、命ある存在はスピリットがあるからこそ、ボディ&マインドによる反応だけではなく、創造的な新たなる選択ができるのです。そして、ヨガをするということは「スピリットの働きを高めていくこと」であり、それは「意識的に生きること」と同じなのです。

日常生活をしっかりと意識的に生きることができれば、それだけで十分にヨガをしていると言えるでしょう。でも、それがなかなか難しい。スピリットとボディ&マインドの関係を知ったとしても、知識として理解しただけでは、すぐにボディ&マインドの自動的な反応で日々を過ごす状態に戻ってしまうものです。

だからこそ、日々の修練が必要なのです。それがヨガの実践です。つまり、内観を心掛けながらアーサナをしたり、瞑想をして、心身の動きに惑わされない視点を育んだりする必要があるのです。

私たちは、夢遊病のように無自覚に行動していることだらけなのに、意識して日々を過ごしているつもりでいます。そのことにちゃんと気づいて、本当の意味で目覚めた視点で、意識的に生きることができる存在になる。それがヨガをする本当の理由であり、意識の目覚めこそがヨガを目指していることなのです。