前話にも取り上げたように、ヨーガスートラには「ヨガとは心の作用を止滅することである」の後、「心の作用が止滅されたとき、純粋観照者たる真我は、自己本来の状態にとどまることになる」「その他の場合にあっては、真我は、心のいろいろな作用に同化した状態になっている」と書かれています。

このことを理解する上では、ボディ・マインド・スピリットの三位一体の考え方が役に立ちます。ボディやマインドは、身に付けたパターンを繰り返しているだけのロボットのような存在。ボディ(肉体)はハードウェアに相当し、マインド(心)はソフトウェアに相当すると思えばいいでしょう。でも私たちはロボットではなく、創造的な活動ができる生きた存在であり、その源がスピリット(真我)です。

つまり、私たちは「ボディ&マインド」と、それとは別格に存在する「スピリット」から成り立っています。でも、普段はマインドとスピリットとが一緒になっていて、その違いが分からなくなっています。つまり、「真我は、心のいろいろな作用に同化した状態になっている」のです。

ヨガをするということは、スピリットとマインドが同化している状態から、スピリットとマインドを切り離し、スピリット側の視点になろうとする試みです。ところが、スピリットとマインドは、切り離そうとすればするほど、さらに同化してしまうものなのです。

切り離そうとする試みは、物事に抵抗する意識の現れで、そのような意識はスピリットではなく、マインド側の働きです。そのため、切り離そうとすればするほど、マインドの側の視点にはまり込んでいくのです。

スピリットとマインドの同化を解消して、スピリット側の視点に立つためには、切り離そうとするのは逆効果。そうではなく、より一体になろうとすること、あるいは、そこにある感覚をよりしっかりと感じようとすることがポイントです。マインドの存在やその感覚をよりしっかりと感じれば感じるほど、それを感じている側の存在が際立ってくるのです。

たとえば、空気の存在を考えてみてください。普段はその存在に気が付いていないでしょう。でも、風が吹いたりして、空気が皮膚に触れる感覚に意識が向くと、空気の存在と、肉体の存在と、それらに意識を向けている存在とがあることが分かります。感覚をしっかりと感じれば感じるほど、そこにある存在の全てがよりはっきりとしてくるのです。

つまり、対象に意識を向けて、そこにある感覚を意識的にしっかりと感じると、その感覚が生じているボディやマインドの存在と、その感覚を認識している視点の両者の存在が際立ってくるのです。

別の言い方をすれば、今この瞬間に自分が感じていることに気づき、それをありのまま、意識的にしっかりと感じることで、マインド側の視点から、スピリット側の視点になっていくのです。それがヨガをするということであり、ヨガを深めるにしたがって、自分が感じていることにちゃんと気づいている「目覚めた側の視点」になっていくのです。

このようなことが分かってくると、アーサナをするときも、意識の力をちゃんと活用して、感覚をしっかり感じることが、とても大切であることが理解できるでしょう。意識の力を活用していなかったら、どんなに難しいポーズをしていても、それはヨガではなく、ただの体操になってしまうのです。

アーサナをするときも、ただポーズができるようなっていくのを喜ぶだけではなく、アーサナによる感覚を通して、スピリット側の視点(目覚めた側の視点)になっていくことを意図してみてください。アーサナをすることはヨガの本質ではありません。「心の作用を止滅し、真我を本来の状態にしていくこと」がヨガなのです。