前話の「意識の働き」のことが分かると、ヨーガスートラ(ヨガの経典)にあるヨガの定義「ヨガとは心の作用を止滅することである」が、すんなりと理解できます。意識の力で、心身の不要な働きを消していくのがヨガなのです。

現代のヨガは、アーサナと呼ばれるポーズをとることがメインで、エクササイズ的なものになっています。一方、もともとのヨガは瞑想が中心で、心へ働きかけることがメインの行法。古くからあるヨガの定義は「心の作用を止滅すること」なのです。

では、アーサナがメインのヨガは、単なるエクササイズであり、本来のヨガではなくなってしまっているのでしょうか?

そこでポイントとなるのが「意識の働き」です。単なるエクササイズをしているのか、それともヨガとしてポーズを活用しているのか。その分かれ目が、意識をどう使っているかによるのです。

例えば、筋肉を伸ばす効果のあるポーズをするとき。ただ筋肉を伸ばしているだけなら、ただのストレッチ。でも、そのときの心身の抵抗感を見つめ、それをありのまま受け入れることで、固さを消していくように意識を使っているならば、それはヨガ。そのときの意識の使い方は、心の作用を止滅するときと同じなのです。

対象が心であっても、体であっても同じです。解消したい対象に意識を向けて、それをありのまま受け入れるように意識することで、心身の不要な働きを消していく。アーサナをするときも、そのように意識を使っているならばヨガになるし、そうでないならば、それは単なるエクササイズです。

そして、心と体は別物ではありません。心に働きかけると、肉体にも変化が起こるし、肉体に働きかけると、心にも変化が起こります。

つまり、要らない心の働きが解消されると、体もラクになります。例えば、ついついネガティブに考えてしまう癖が解消されると、健康度がアップしたりします。同様に、肉体から要らないものが解消されると、心にも変化が起こります。例えば、必要以上の体の固さや脂肪などが解消されると、心もスッキリと軽くなり、明るく活動的になったりします。ヨガとしてアーサナを行い、肉体から要らないものを解消していくことは、心の作用の止滅にもつながるのです。

ところで、ヨーガスートラは「ヨガとは心の作用を止滅することである」の後、「心の作用が止滅されたとき、純粋観照者たる真我は、自己本来の状態にとどまることになる」「その他の場合にあっては、真我は、心のいろいろな作用に同化した状態になっている」と続きます。

命ある存在としての意識は、真我の働きです。心や体の状態を見つめ、ありのままを受け入れることができるのは、真我があるからこそ。真我の働きを活用して、心や体から要らないものを消していき、真我の本来の状態を取り戻そうとするのがヨガなのです。

つまり、エクササイズ的にヨガをするときも、単にアーサナをするだけでなく、意識の力を活用することで、ありのままの自分を見つめ、真我の本来の状態を取り戻そうとする。それがヨガとして、アーサナをするということなのです。