前話では、瞑想をサマタとヴィパッサナーの視点で分類しましたが、今回はヨガの8支則の視点で、瞑想の段階を解説していきます。

※ヨガの8支則は、ヨガの経典「ヨーガ・スートラ」が説いているヨガの実践方法であり、「ヤマ、ニヤマ、アーサナ、プラーナヤーマ、プラティヤハーラ、ダラーナ、ディアナ、サマディ」の八つからなります。ヤマ・ニヤマは、 日々の生活における「禁戒=してはならないこと」「勧戒=積極的に行うべきこと」 で、これらもとても大切なのですが、今回はそこは省略して、アーサナから取り上げていきます。

まず、しっかりと瞑想をしようと思ったら、瞑想できる体作りが必要です。少しでも瞑想の経験があれば分かることですが、長い時間じっと座っていることは、必ずしも簡単ではありません。瞑想をしっかり行いたければ、歪みのない、整った体づくりが必須です。

肉体だけでなく、気の巡りが良いことも必要です。気が乱れていると、すぐに気が散ったり、すぐに体を動かしたくなったりします。気の巡りを整えるには、呼吸が役に立ちます。意識的に気持ち良い深い呼吸を繰り返すことで、気が整い、瞑想に入りやすくなります。

ここまでの段階(=瞑想に入りやすくするために、肉体を整え、呼吸の力で気の巡りを整える段階)は、ヨガの8支則で言えば「アーサナ」「プラーナヤーマ」に相当します。「私はヨガをしています」と誰かが言うとき、大抵はこの段階のことを言っています。

そして、いよいよ瞑想ですが、いきなり無の境地になれる訳がありません。瞑想しようとすると、すぐに落ち着きのない心や体と向き合うことになるでしょう。

たとえば、足を組み替えたくなったり、体のどこかが痒くなってきたり、周りの様子が気になったり、いろいろな雑念がわいてきたり、眠くなってきたり。じっと座っているという状況に対して、心や体がいろいろな反応を始めてしまい、最初のうちは瞑想に集中できないものです。

瞑想を続けるには、それらの反応にとらわれることなく、それらをやり過ごしていく必要があります。心や体の反応に気づきながらも、それに捕らわれないクリアな意識が存在している状態。それが瞑想の最初の段階。そのような「感覚に翻弄されない意識」は、ヨガの8支則で言えば「プラティヤハーラ」の段階に相当します。

瞑想には、いろいろな方法があるけれど、どんなやり方であれ、瞑想をより深めていこうとするならば、意識を一点に集中しておく必要があります。意識を集中するときのターゲットは様々です。たとえば、「ロウソクの炎を見つめ続ける」とか、「マントラ(たとえばソーハム)を一心に唱え続ける」とか、「呼吸に意識を向けて、呼吸を見つめ続ける」等々。

世の中にはいろんな瞑想法があるけれど、多くの瞑想法の違いは、集中対象のターゲットの違いに過ぎないことが多く、どんなやり方であれ、意識を一点に集中する取り組みは、ヨガの8支則の「ダラーナ」の段階に相当しています。

ダラーナの段階では、意識を一点に集中させようとする「意識的な働きかけ」があります。そこから瞑想が深まると、意識的な働きかけがなくても、意識がブレないで、一点にとどまっている状態になっていきます。それがヨガの8支則の「ディアナ」の段階。おそらく多くの人がイメージする瞑想(=無の境地)は、このディアナの段階を指しています。

ちなみに、ディアナはインド古語(サンスクリット語)の言葉で、それが中国に伝わると「禅那(ぜんな)」となり、それが日本に伝わり「禅」となっています。(ディアナは瞑想の中でもかなり高いレベルであり、プラティヤハーラやダラーナの段階を経ることなく、いきなりディアナ(≒禅)に取り組もうとすると、かなり難しく感じることでしょう)

ディアナの状態を維持できるようになると、そこから更に瞑想が深まっていきます。すると、自我の意識がなくなり、この世のすべてと自分とが一体であることに気づき、それを感じている状態になっていきます。

私たちはいつも「自分」と「自分以外のもの」が存在していると感じていますが、それは言わば仮想現実。本当はすべて一つの存在です。それを頭の理解ではなく、実際に体験している状態。それがヨガの8支則の「サマディ」の段階です。

サマディの状態を仏教的に言えば「梵我一如」であり、スピリチュアル系の表現で言えば「ワンネス体験」のこと。ヨガのすべてのプロセスは、そこを目指しているのです。

現代のヨガは、健康美容目的のアーサナばかりに目が行きがちですが、もともとヨガは健康美容体操ではありません。ヨガは、心身を整えてサマディに向かっていく修行体系であり、その視点から見ると、瞑想はヨガの本命であり、必須の行法です。

せっかくヨガをするのであれば、アーサナだけで終わらせないで、そこから先の段階も視野に入れて実践していきたいものです。アーサナはヨガの入り口に過ぎません。その先にこそ、ヨガの目指している世界が待っているのです。