瞑想の指導をしていて一番多い質問は、「瞑想すると雑念がわいて、無になれないのですが、どうしたらいいのでしょう?」というものです。この質問をしたくなる気持ち、分かる方も多いでしょう。

でもこの質問には、そもそもの勘違いが2つも含まれています。

その一つは「瞑想すると雑念がわく」ということ。瞑想したら雑念がわくのではありません。雑念は、常日頃からわきまくり。「瞑想すると雑念に気が付く」のが実態です。

瞑想をしているとき、例えば「お腹すいたな、何か食べたいな、そう言えばおやつがあったな、あれ食べたいな、、、、」という思いがわいたら、それは雑念だと思うでしょう。

でも普段の生活の中で「お腹すいたな、何か食べたいな、そう言えばおやつがあったな、あれ食べたいな、、、、」という思いがわいたら、すぐにおやつを取りに行ってたりします。つまり、雑念(明確に意図して考えているわけではなく、なんとなく勝手に湧き上がってくる思考)に反応して、日頃は行動しているのです。

普段は、行動が伴っているから、それが雑念であることに気づいていないだけ。実際のところ、雑念はいつもわいていて、日常生活の大半は、雑念に反応して行動しているのが普通です。でも瞑想中は違います。瞑想中は、雑念がわいても、体を動かさないようにしているから、それが雑念であることに気づくことができるのです。

瞑想の意義の一つは、「雑念がわいていることに気づくこと」です。そのことに気づくことで、雑念に反応して行動する生き方から、明確な意図に基づいて行動する生き方へとシフトすることができるのです。

瞑想しているときに雑念がわいてきたら、その雑念のあり様をしっかりと観察してください。雑念にとらわれずに、それをありのまま観察する。すると、雑念は勝手にわいてきて、やがて消えていくのが分かります。心は、いつもそれを繰り返しています。そんな心のあり様に気づき、雑念にとらわれない視点を育む。そこに瞑想の意義があるのです。

そして、もう一つの勘違いが「無」についてです。

心の動きがまったくない状態が無心。それが瞑想の目指している状態。前述の質問をする人は、そんな風に思っているのでしょうが、それも大きな勘違いです。

そのことは、体のことを考えると分かりやすいでしょう。一般的な瞑想では、座って体を動かさないようにしますが、体の動きがまったくない状態にはなりません。心臓は動いているし、呼吸もしています。体の中では、様々な器官が休むことなく働いている。じっと座って動かずに瞑想したとしても、実際には体は常に動きまくりです。

それは心も同じ。なにかを考えるようなことをやめたとしても、心臓の鼓動のように、心は勝手に動き続けます。心と体は不可分。体が動いている限り、心にも動きがあって当然。生きている限り、心の動きが完全に止まることはあり得ないのです。

でも「意識」は違います。体の状態を観察する意識。心の状態を観察する意識。そんな意識の存在、誰でも分かるでしょう。でも普段は、意識と心が一体になってしまって、心の動きに意識が反応しています。(前述したように、雑念に反応して行動しているときが、まさにその状態です)

瞑想中は、そのような反応をやめて、心の動きに意識がとらわれない状態を目指します。心や体は見られる側で、意識の本質は見る側。心や体が何をしているかに気づきつつも、それにとらわれない「見る側の視点」に立つのが瞑想です。つまり、瞑想における無心とは、心の動きが無い状態ではなくて、心の動きに反応した意識のブレが無い状態のことなのです。

そのような「見る側の視点」に立つと、心や体はこの世でいろんな経験をするための大切な乗り物であり、私たちの本質は、その乗り物を乗りこなして、現世での経験を楽しんでいる「意識の存在」であることが実感として分かるようになっていきます。

自分の本質は、心や体を超えた存在である。ヨガをする人ならば、そのようなことを知識としては理解していることでしょう。瞑想は、そのような知識を実際にリアルな体験として理解する助けになります。それも瞑想をする上での大切な意義の一つなのです。