ヨーガスートラの原文はインド古語(サンスクリット語)で、その訳文もいろいろあります。ここでは、下記の4冊の訳文を参考にしながら、読み解いていきます。

参考書籍(番号①~④が書籍と訳文の対応を示します)
①やさしく学ぶYOGA哲学 ヨーガスートラ(向井田みお著)
②解説ヨーガ・スートラ(佐保田鶴治著)
③インテグラル・ヨーガ パタンジャリのヨーガ・スートラ(スワミ・サッチダーナンダ著)
④現代人のためのヨーガ・スートラ(グレゴール・メーレ著)

【ヨーガスートラ:1章27節】

①イーシュヴァラ(自然の摂理)の呼び名が、オーム(聖音)です。

②この自在神を言葉であらわしたものが、聖音「オーム」である。

③イーシュヴァラをことばで表したものが、神秘音オームである。

④至高の存在の表現が、聖音オームである。


ポイント1
原文をカタカナで書くと「タスヤ・ヴァーチャカハ・プラナヴァハ」で、タスヤは「それ」を意味し、ヴァーチャカハは「言い表す、言葉で表現する、~を意味する」などの意味合いの言葉です。

ポイント2
前節までと同様、24~26節が「プルシャ」の説明であるならば、本節の主語(タスヤ=それ)も「イーシュヴァラ」ではなく「プルシャ」とする方が自然です。主語がプルシャであるならば、本節は「プルシャは、言わばプラナヴァハである」といった意味合いになるでしょう。

ポイント3
本節のキーワードは「プラナヴァ」です。これは何を現しているのでしょうか? 一般的に聖音オームのこととされていますが、本当でしょうか? オームならば、素直に「オーム」と書けばいいのに、なぜ「プラナヴァ」と書く必要があるのでしょうか?

もともとプラナヴァは、「プラナ=生命エネルギー」と「ナヴァ=船、運ぶもの」を組み合わせた言葉です。語義を素直に解釈すると、本節におけるプラナヴァは、生命エネルギーを運んでくるもの、すなわち「命をもたらすもの」と理解した方がいいように思います。

そのように解釈して、本文を訳すと、以下のようになります。

『それ(プルシャ)は、言わば「命をもたらすもの」である』

ポイント4
プラクリティからなる肉体と心に、プルシャによって命がもたらされる。そう考えると、それはヨガの道しるべで繰り返し説明してきた、「ボディ&マインド」と「スピリット」の関係性と全く同じこととなります。そのような関係性を理解していると、本節も前節と同様に、本来の語義の通りの訳で簡単に理解できる内容だと思います。



【ここまでのまとめ(ボディ、マインド、スピリットの視点での訳)】

1章1節:これから、ヨガの解説をする。

1章2節:ヨガとは、マインドの働き(=心の作用)を解消することである。

1章3節:それができると、スピリットが本来の状態になる。

1章4節:普段は、スピリットとマインドが一体化して、区別がつかなくなっている。

1章5節:マインドの働きには、5種類あり、それらは人を悩み苦しませたり、そうでなかったりする。

1章6節:マインドの5つの働きとは「①正しい認識、②誤った認識、③言葉による概念や想像(ヴィカルパ)、④放心状態(ニドラー)、⑤感覚の保持(スムリティ)」である。

1章7節:正しい認識には「①自分の経験に基づき、その経験から直接分かったこと、②経験から類推して分かったこと、③経験に基づいたものではなく、本などから学んだこと」の3種類がある。

1章8節:誤った認識とは、何かを誤って解釈したことによる、正しくない理解である。

1章9節:実際には存在していなくても、言葉で理解して想像する。それがヴィカルパ(言葉による概念や想像)である。

1章10節:ニドラー(放心状態)は、何かに依存していて、想念が生まれない状態である。

1章11節:スムリティ(感覚の保持)は、何かを経験して感じたことが、消えることなく残存することである。

1章12節:マインドの働き(=心の作用)は、アビャーサとヴァイラーギャによって解消される。

1章13節:アビャーサは、ある状態にとどまろうとする取り組みを、繰り返し行うことである。

1章14節:その状態は、時間をかけて、中断することなく、意識を向けて、繰り返し実践することで、確固たる境地となる。

1章15節:自ら経験したことに対して、あるいは、自らは経験せずに伝え聞いたりしたことに対して、何かをしたいという欲求を克服して、対象をありのまま受け入れる。そのような意識がヴァイラーギャである。

1章16節:最高のヴァイラーギャは、純粋なる意識(プルシャあるいはスピリット)の視点であり、その視点に至れば、物質世界でのもろもろの事象(グナ)にとらわれなくなる。

1章17節:身体的感覚に関すること、心的感覚に関すること、究極の幸せの境地に関すること、自我の意識に関すること、それらを知ることで、完全なる理解に至る。

1章18節:あとは、想念を終わらせることを繰り返し行う。それは以前から存在しているサンスカーラの残りである。

1章19節:想念が生まれるのは、霊的な存在と、物質的な要素とが結合することによる。

1章20節:何かをしたいと思って、何か新たな行動をすると、それがこれまでの記憶や経験と結びついて、以前とは異なる新たな想念となる。

1章21節:獲得された想念により、とても強い思いで、さらに何かをしたくなる。

1章22節:想念とは異なるものがある。それは、穏やかなリラックスした状態、かつ、とらわれることのない中立な状態で、想念を超えたところにある。

1章23節:それはまた、イーシュヴァラ(全てを司る神的な聖なる存在)にすべてを委ねるということでもある。

1章24節:何らかの思考(クレーシャ)が生じる。何らかの行為(カルマ)をする。それらの結果(ヴィパーカ)が生じる。それがまた新たな思考や行為の原因(アーシャヤイル)となる。そのような事柄に影響を受けないものがあり、それがプルシャ(意識の源・真我)である。プルシャは、イーシュヴァラ(全てを司る神的な聖なる存在)が特別な形で現れたものである。

1章25節:そこ(プルシャ)は、最上の全ての知の源泉である。

1章26節:それ(プルシャ)は、太古からもともと存在している。それはまた、知を授ける存在であり、時間によって制約されることがない。

1章27節:それ(プルシャ)は、言わば「命をもたらすもの」である。