ヨーガスートラの原文はインド古語(サンスクリット語)で、その訳文もいろいろあります。ここでは、下記の4冊の訳文を参考にしながら、読み解いていきます。

参考書籍(番号①~④が書籍と訳文の対応を示します)
①やさしく学ぶYOGA哲学 ヨーガスートラ(向井田みお著)
②解説ヨーガ・スートラ(佐保田鶴治著)
③インテグラル・ヨーガ パタンジャリのヨーガ・スートラ(スワミ・サッチダーナンダ著)
④現代人のためのヨーガ・スートラ(グレゴール・メーレ著)

【ヨーガスートラ:1章22節】

①サマーディ(瞑想状態)に至るスピードは、練習の熱心さによってゆっくり、ほどほど、速く、スピードに違いがあります。

②強い熱情という中にも、温和、中位、破格の三つの程度があり、それに応じて、三昧の成功の間近さに差等がある。

③成功のために要する時間はさらにまた、その修練が穏和であるか、中位であるか、非常に熱烈であるかによって、異なる。

④熱烈な者はまた、穏和、中位、強烈に分けられる。

ポイント1
原文をカタカナで書くと「ムリドゥ・マディヤー・アディマートラトヴァート・タトー・ピ・ヴィシェーシャハ」です。

従来の訳では、「ムリドゥ・マディヤー・アディマートラトヴァート」の部分を並列の3語として、それらを「穏和、中位、強烈」といった意味合いで訳しています。

しかし、文法的に考えると、ムリドゥとマディヤーは形容詞で、アディマートラトヴァートが名詞なので、それらは並列の語ではなく、「ムリドゥでマディヤーなアディマートラトヴァート」という感じで訳すべきところです。

また、従来の訳の主語に相当する部分(「サマーディに至るスピードは」「三昧の成功の間近さに」「成功のために要する時間は」「熱烈な者は」)は全て意訳で、原文には無い言葉ばかりです。

ポイント2
ムリドゥは「柔軟な、温和な、穏やかな」などの意味合いがあり、マディヤーは「中立の、中位の、間に立つ」などの意味合いの言葉です。アディマートラトヴァートは「なんらかの基準を超えた状態」のことです。

「ヨガの道しるべ」で、心身の反応パターンを解消していくことについて繰り返し説明しましたが、反応パターンを解消するときは、「リラックスして、反応にとらわれることなく、その反応を俯瞰(ふかん)するような客観的な視点で見つめること」が必要です。そのことを知っていると、本節はまさにそのことを説明しているように思えます。

つまり、ムリドゥ(穏やかな、リラックスした状態)、かつ、マディヤー(とらわれることない、中立な状態)で、アディマートラトヴァート(心身の反応を超えた俯瞰的立場)になるべし、ということ。このように「ムリドゥ・マディヤー・アディマートラトヴァート」が、心身の反応パターンを解消するときの意識のあり方を説明していると解釈すると、とても簡潔で的を得た内容のように思えます。

ポイント3
本節後半の「ヴィシェーシャハ」は「違い、特異性、特殊性」などを意味する言葉ですが、「卓越、優秀」などを意味することもあり、ポジティブな意味合いのある言葉です。

前回解説したように、1章19節~21節が想念についての説明だとすると、ヴィシェーシャハは、想念とは異なる“卓越した何か”のことを示しているのでしょう。つまり、意識の働きには、想念とは異なるものがあり、それが「ムリドゥ・マディヤー・アディマートラトヴァート」ということでしょう。

ここまでの解釈をまとめると、本節の訳は以下のようになります。

想念とは異なるものがある。それは、穏やかなリラックスした状態、かつ、とらわれることのない中立な状態で、想念を超えたところにある。

【ここまでのまとめ(ボディ、マインド、スピリットの視点での訳)】

1章1節:これから、ヨガの解説をする。

1章2節:ヨガとは、マインドの働き(=心の作用)を解消することである。

1章3節:それができると、スピリットが本来の状態になる。

1章4節:普段は、スピリットとマインドが一体化して、区別がつかなくなっている。

1章5節:マインドの働きには、5種類あり、それらは人を悩み苦しませたり、そうでなかったりする。

1章6節:マインドの5つの働きとは「①正しい認識、②誤った認識、③言葉による概念や想像(ヴィカルパ)、④放心状態(ニドラー)、⑤感覚の保持(スムリティ)」である。

1章7節:正しい認識には「①自分の経験に基づき、その経験から直接分かったこと、②経験から類推して分かったこと、③経験に基づいたものではなく、本などから学んだこと」の3種類がある。

1章8節:誤った認識とは、何かを誤って解釈したことによる、正しくない理解である。

1章9節:実際には存在していなくても、言葉で理解して想像する。それがヴィカルパ(言葉による概念や想像)である。

1章10節:ニドラー(放心状態)は、何かに依存していて、想念が生まれない状態である。

1章11節:スムリティ(感覚の保持)は、何かを経験して感じたことが、消えることなく残存することである。

1章12節:マインドの働き(=心の作用)は、アビャーサとヴァイラーギャによって解消される。

1章13節:アビャーサは、ある状態にとどまろうとする取り組みを、繰り返し行うことである。

1章14節:その状態は、時間をかけて、中断することなく、意識を向けて、繰り返し実践することで、確固たる境地となる。

1章15節:自ら経験したことに対して、あるいは、自らは経験せずに伝え聞いたりしたことに対して、何かをしたいという欲求を克服して、対象をありのまま受け入れる。そのような意識がヴァイラーギャである。

1章16節:最高のヴァイラーギャは、純粋なる意識(プルシャあるいはスピリット)の視点であり、その視点に至れば、物質世界でのもろもろの事象(グナ)にとらわれなくなる。

1章17節:身体的感覚に関すること、心的感覚に関すること、究極の幸せの境地に関すること、自我の意識に関すること、それらを知ることで、完全なる理解に至る。

1章18節:あとは、想念を終わらせることを繰り返し行う。それは以前から存在しているサンスカーラの残りである。

1章19節:想念が生まれるのは、霊的な存在と、物質的な要素とが結合することによる。

1章20節:何かをしたいと思って、何か新たな行動をすると、それがこれまでの記憶や経験と結びついて、以前とは異なる新たな想念となる。

1章21節:獲得された想念により、とても強い思いで、さらに何かをしたくなる。

1章22節:想念とは異なるものがある。それは、穏やかなリラックスした状態、かつ、とらわれることのない中立な状態で、想念を超えたところにある。