ヨーガスートラの原文はインド古語(サンスクリット語)で、その訳文もいろいろあります。ここでは、下記の4冊の訳文を参考にしながら、読み解いていきます。
参考書籍(番号①~④が書籍と訳文の対応を示します)
①やさしく学ぶYOGA哲学 ヨーガスートラ(向井田みお著)
②解説ヨーガ・スートラ(佐保田鶴治著)
③インテグラル・ヨーガ パタンジャリのヨーガ・スートラ(スワミ・サッチダーナンダ著)
④現代人のためのヨーガ・スートラ(グレゴール・メーレ著)
【ヨーガスートラ:1章17節】
①体、感覚、心と自分自身をそれぞれ見分け、自分の本質を分析するという順番に従って、真実を分析して瞑想することで、サンプラッニャータ(はっきりした理解)が生まれます。
②三昧(さんまい)のうちで、尋(じん)、伺(し)、楽(らく)、我想(がそう)などの意識を伴っているものは有想(うそう)とよばれる。
③サムプラジュニャータ・サマーディ【区別ある三昧】〔有想三昧〕には、論証性〔尋〕、反射〔伺〕、歓喜〔楽〕、および純粋な我-性〔我想〕が伴う。
④対象のあるサマーディとは、熟考、考察、歓喜、私であることに関わるものである。
ポイント1
訳文の多くは、「サムプラジュニャータ」をサマーディ(三昧)の一種であるとしており、日本語では、それを有想三昧と訳すのが主流となっています。
しかしながら、本節の原文をカタカナで書くと「ヴィタルカ ヴィチャーラ アーナンダ アスミター アヌガマート サムプラジュニャータハ」であり、サマーディの言葉はありません。有想三昧というのは、原典には書かれていない意味合いを付加した言葉なのです。
もともと、サムプラジュニャータは「完全に理解していること」というような意味合いの言葉。ヨーガスートラでは、それがサマーディであるとは述べておらず、それをサマーディの一種としているのは、後世の人の解釈によるものです。
ポイント2
②③の訳では仏教用語を使って、原文の言葉を下のように訳しています。
ヴィタルカ=論証性〔尋〕
ヴィチャーラ=反射〔伺〕
アーナンダ=歓喜〔楽〕
アスミター=純粋な我〔我想〕
サムプラジュニャータ=有想三昧
ヴィタルカとヴィチャーラを比較して説明するときは、「ヴィタルカ=粗雑な心の作用」「ヴィチャーラ=繊細な心の作用」とされるときもあります。
アーナンダという言葉は、「アー(完全なる)」と「ナンダ(幸福)」から成り立っています。つまりアーナンダは、完全なる幸福の境地であり、命ある存在が究極的に到達すべきところと言ってもいいでしょう。
ポイント3
仏教用語を使わずに、それぞれの語句を普通の言葉で(私なりの解釈を入れて)訳すと以下のようになります。
ヴィタルカ=粗雑なもの=物質的なもの=身体的感覚に関すること
ヴィチャーラ=繊細なもの=非物質的なもの=心的感覚に関すること
アーナンダ=究極の幸せの境地に関すること
アスミター=自我の意識に関すること
サムプラジュニャータ=完全なる理解
なお、ヴィタルカとヴィチャーラの違い(=尋と伺の違い)には諸説あり、明確な答えはないようです。ここでは、ボディ&マインドの視点から、「ヴィタルカ=身体的感覚に関すること」「ヴィチャーラ=心的感覚に関するこ」としましたが、これは一般的な考え方ではなく、私なりの解釈の部分です。
ポイント4
人間には、肉体の働きと、心の働きがあります。それら(=ボディ&マインド)を備えた人間には、最終的に到達すべきゴール(アーナンダの境地)がある。そこに向かって、私たちは「自分」という自我の意識を備えた存在として日々を生きている。ヨーガをするのであれば、それらのことを深く理解する必要があるのでしょう。
ポイント5
以上のことを踏まえて、全体を訳すと以下のようになります。
「身体的感覚に関すること、心的感覚に関すること、究極の幸せの境地に関すること、自我の意識に関すること、それらを知ることで、完全なる理解に至ります。」
【ここまでのまとめ(ボディ、マインド、スピリットの視点での訳)】
1章1節:これから、ヨガの解説をする。
1章2節:ヨガとは、マインドの働き(=心の作用)を解消することである。
1章3節:それができると、スピリットが本来の状態になる。
1章4節:普段は、スピリットとマインドが一体化して、区別がつかなくなっている。
1章5節:マインドの働きには、5種類あり、それらは人を悩み苦しませたり、そうでなかったりする。
1章6節:マインドの5つの働きとは「①正しい認識、②誤った認識、③言葉による概念や想像(ヴィカルパ)、④放心状態(ニドラー)、⑤感覚の保持(スムリティ)」である。
1章7節:正しい認識には「①自分の経験に基づき、その経験から直接分かったこと、②経験から類推して分かったこと、③経験に基づいたものではなく、本などから学んだこと」の3種類がある。
1章8節:誤った認識とは、何かを誤って解釈したことによる、正しくない理解である。
1章9節:実際には存在していなくても、言葉で理解して想像する。それがヴィカルパ(言葉による概念や想像)である。
1章10節:ニドラー(放心状態)は、何かに依存していて、想念が生まれない状態である。
1章11節:スムリティ(感覚の保持)は、何かを経験して感じたことが、消えることなく残存することである。
1章12節:マインドの働き(=心の作用)は、アビャーサとヴァイラーギャによって解消される。
1章13節:アビャーサは、ある状態にとどまろうとする取り組みを、繰り返し行うことである。
1章14節:その状態は、時間をかけて、中断することなく、意識を向けて、繰り返し実践することで、確固たる境地となる。
1章15節:自ら経験したことに対して、あるいは、自らは経験せずに伝え聞いたりしたことに対して、何かをしたいという欲求を克服して、対象をありのまま受け入れる。そのような意識がヴァイラーギャである。
1章16節:最高のヴァイラーギャは、純粋なる意識(プルシャあるいはスピリット)の視点であり、その視点に至れば、物質世界でのもろもろの事象(グナ)にとらわれなくなる。
1章17節:身体的感覚に関すること、心的感覚に関すること、究極の幸せの境地に関すること、自我の意識に関すること、それらを知ることで、完全なる理解に至る。