
*** AIによる解説 ***
原文:
स्वरस्वाही विदुषोऽपि तथारूढोऽभिनिवेशः॥९॥
読み方:
スヴァラスヴァーヒ ヴィドゥショーアピ タター・ルーダー・アビニヴェーシャハ
英訳:
Abhiniveśa (clinging to life or fear of death) is deeply rooted, even in the wise; it flows instinctively.
和訳:
アビニヴェーシャ(生への執着・死への恐れ)は、知恵ある者にさえ深く根づいており、本能的に生じるものである。
各単語の日本語での意味:
स्वरस्वाही (svarasvāhī、スヴァラスヴァーヒ):本能的に流れる、自発的な衝動に基づく
विदुषः (viduṣaḥ、ヴィドゥシャハ):賢者、知恵ある人
अपि (api、アピ): 〜でさえ、〜もまた
तथा (tathā、タター):同様に、そのように
अरूढः (ārūḍhaḥ、アールーダハ):根付いた、深く入り込んだ
अभिनिवेशः (abhiniveśaḥ、アビニヴェーシャハ):生存本能、死への恐れ、生への執着
解説:
このスートラでは、5つのクレシャ(煩悩)の中で最後のもの「アビニヴェーシャ(abhiniveśaḥ)」 について述べられています。
アビニヴェーシャとは、死への恐れ、または生命への強い執着を意味します。これは、理性的にどれほど理解している人であっても、つまり賢者(viduṣaḥ)でさえ持っている、非常に根深い本能的な煩悩です。
「svarasvāhī」という語は、「本能的に流れ出すもの」「自分のエッセンス(sva-rasa)に従って自然にあふれ出るもの」という意味があり、アビニヴェーシャが理性では制御できない、生得的な反応であることを示しています。
このクレシャは、人が生まれ持った「生きたい」「死にたくない」という根源的な恐れや執着に根ざしており、他のクレシャ(無知、我執、執着、嫌悪)と密接に結びついています。
ヨーガの修行者にとって、このアビニヴェーシャは最も手放しにくいクレシャの一つとされています。
表面的には恐怖や不安として現れますが、深く見つめると、自己(アートマン)を身体や生命と同一視する無知(アヴィッディヤー)が根底にあるのです。
アビニヴェーシャを観照し、恐れに巻き込まれずに静かに見つめる力が、内的自由と解放(カイヴァリヤ)への鍵となります。
まとめ:
このスートラは、人間の根源的な恐れがいかに深く無意識に根差しているかを明らかにし、どれほど知恵があっても避けがたいその働きに対して、ヨーガによる内観と気づきの重要性を教えてくれます。
*** ここまではAIによる解説。以下はそれを踏まえての解釈です ***

最初の言葉「svarasvāhī」は、「sva自己」+「rasa 本質」+「vāhī 流れる、運ぶ」という要素から成り、これらが合わさって「自分の本質から自然に流れ出るもの」、すなわち「本能的なもの」「生まれつき備わっている性質」という意味になります。
「viduṣaḥ」は「vid 知る」から派生した語で、「知恵のある人」「賢者」を意味します。「api」は「〜でさえ」「〜もまた」という意味の副詞で、英語で言えば “even” に相当します。「tathā」は「そのように」「同じように」という意味です。したがって、「viduṣaḥ api tathā」で「賢者でさえも同じように」という意味になります。
「ārūḍhaḥ」は「ruh 登る、上がる」という語根に由来し、それに接頭辞「ā」がつくことで、「完全に」「しっかりと」という意味が加わります。したがって、「arūḍhah」は「完全に登った」「しっかりと到達した」「深く根づいた」「強く定着した」というニュアンスになります。本節においては、「アビニヴェーシャ」が表層的なものではなく、心の深層にしっかりと根づいている状態を強調しています。
そして本文のメインテーマである「アビニヴェーシャ(abhiniveśaḥ)」ですが、これは「abhi 向かって」+「ni 中へ」+「viś 入る」という要素から構成され、 「しっかりと入り込むこと」「深く根付いていること」「しがみつくこと」「強い執着や固着」などを意味します。
AIによると、アビニヴェーシャとは「死への恐れ」「生命への強い執着」を意味するとしています。しかしながら、このような解釈は、ヨーガ哲学の教えに基づいて、後世になって加えられたもの。アビニヴェーシャのもともとの意味は、上述した通りで、死や命に関するものではありません。
以上を踏まえて、文法的に忠実に翻訳すると、本節は以下のようになります。
本能的なもので、賢者であっても同じように深く根付いているものがあり、それが「アビニヴェーシャ(強い執着)」である。

ヨーガスートラ第2章(本節までの訳)
第1節:タパス(肉体を浄化して整えること)、スヴァーディヤーヤ (知的な理解を深めること)、イーシュワラ プラニダーナ(神に委ねること)。それらの実践によりヨガを成し遂げることができる。
第2節:
その目的は、サマーディの状態に至るとともに、クレーシャ(苦悩や煩悩)を弱めていくことである。
第3節:
アヴィディヤ(無知)、アスミタ(我執)、ラーガ(執着)、ドヴェーシャ(嫌悪)、アビニヴェーシャ(生命への固執)が、クレーシャ(苦悩や煩悩)の源である。
第4節:
アヴィディヤ(無知)は、他のクレーシャ(苦悩や煩悩)のもととなる。眠りに落ちているかのようにもろく弱く、高貴なものとの繋がりが断たれている状態である。
第5節:
永遠ではないもの、不純なもの、苦しみ、自己の本質でないもの。永遠なるもの、純粋なもの、安楽、自己の本質。それらについて、誤って認識しているのがアヴィディヤ(無知)である。
第6節:
アスミタ(我執)は、「ドゥリグ(見る者、観照者)」と「ダルシャナ(見る働き、認識の作用)」を一体視してしまうことである。
第7節:
スカ(快楽)の後に残るもの(潜在印象)があり、それがラーガ(執着)となる。
第8節:
ドゥッカ(苦しみの経験)の後に残るもの(潜在的印象)があり、それがドヴェーシャ(嫌悪)となる。
第9節:
本能的なもので、賢者であっても同じように深く根付いているものがあり、それが「アビニヴェーシャ(強い執着)」である。