*** AIによる解説 ***

原文:
प्रकाशक्रियास्थितिशीलं भूतेन्द्रियात्मकं भोगापवर्गार्थं दृश्यम्॥
prakāśa-kriyā-sthiti-śīlaṃ bhūtendriyātmakaṃ bhogāpavargārthaṃ dṛśyam

読み方:
プラカーシャ・クリヤー・スティティ・シーラム ブーテーンドリヤーアートマカム ボーガーパヴァルガールタム ドゥルシュヤム

英訳:
The seen is of the nature of illumination, activity, and inertia; it consists of the elements and the senses, and exists for the purpose of experience and liberation.

和訳:
見られるものは、明照性・活動性・静止性という性質をもち、元素と感覚器官から成り、経験と解放のために存在する。

各単語の意味:
prakāśa(プラカーシャ):光、明るさ、明照、あらわにする性質
kriyā(クリヤー):活動、はたらき、作用
sthiti(スティティ):静止、持続、安定、不動の状態
śīlam(シーラム):〜という性質をもつ、本性として備える
bhūta(ブータ):元素、五大(地・水・火・風・空)
indriya(インドリヤ):感覚器官、感覚のはたらき
ātmakaṃ(アートマカム):〜から成る、〜を本質とする
bhoga(ボーガ):経験、享受
apavarga(アパヴァルガ):解放、自由、解脱
arthaṃ(アルタム):〜のために、目的として
dṛśyam(ドゥルシュヤム):見られるもの、対象、客体

解説:
第2章第17節では、「見る者」と「見られるもの」との結合が、避けるべき苦の原因であると述べられました。続く第18節では、そのうちの「見られるもの」とは何か、その性質と目的が説明されます。

ここでいう「見られるもの」とは、外界の物体だけを指しているのではありません。身体、感覚、心の働き、そして自然界のあらゆる現象を含む、プラクリティの側全体を指しています。

それは三つの基本的性質、すなわち明照性、活動性、静止性を備えているとされます。これらは伝統的には、サットヴァ、ラジャス、タマスという三つのグナに対応すると理解されます。

また、「見られるもの」は元素と感覚器官から成るとされます。これは、私たちが経験する世界が、五大元素と、それを認識するための感覚器官や心の機能によって成り立っていることを示しています。

さらに重要なのは、その目的です。本節では「経験」と「解放」のために見られるものが存在すると述べられています。つまり、世界は単に私たちを縛るためにあるのではなく、経験を通して学び、最終的には真の自己を識別し、解放へ向かうための場でもあるということです。

この節は、見られる世界を否定するのではなく、その性質を正しく理解することの大切さを示しています。ヨーガの道においては、世界や心の働きを正しく見極めることが、苦からの自由へ向かう第一歩となるのです。

*** ここまではAIによる解説。以下はそれを踏まえての解釈です ***

第2章第18節は、一般には「見られるものは、明照性・活動性・静止性という性質をもち、元素と感覚器官から成り、経験と解放のために存在する」と説明されます。しかし、言葉の意味をひとつひとつ丁寧にたどっていくと、ここでも別の読み方が見えてきます。

「現れること・はたらくこと・とどまること」

冒頭の prakāśa-kriyā-sthiti-śīlam という部分です。通常は、サットヴァ・ラジャス・タマスの三つのグナに対応させて「明照性・活動性・静止性」と訳されます。そのような理解が一般的なのですが、語源的な感覚をたどると、もう少し異なる意味合いが見えてきます。

prakāśa は「明るみに出ること」「あらわになること」、kriyā は「はたらくこと」「何かを生じさせること」、sthiti は「とどまること」「保たれること」という意味合いをもっています。

つまり、見られるものの世界は、「現れる・はたらく・とどまる」という三つの流れをもつものとして、読み直すことができます。これは三つの固定した性質というより、むしろ世界や経験が立ち上がり、展開し、維持されていく姿として受け取るほうが自然かもしれません。そう考えると、本節は「創造・展開・維持」という流れを含んでいるようにも見えてきます。

「現れる側と受け取る側の両方を含む世界」

次に、bhūtendriyātmakaṃ という部分です。一般には「元素と感覚器官から成る」と訳されますが、各語のもともとの意味合いから解釈していくと、少し見方が変わります。

bhūta は単に物質的な元素というより、現れてきたもの、生じてきたものという意味合いです。また indriya も、単なる器官というより、「感じ取る働き」と受け取るほうが自然な読み方です。

そうすると bhūtendriyātmakaṃ は、「現れてきたもの」と、それを「感じ取る働き」とから成るもの、という意味合いになります。

つまり「見られるもの」とは、外にある物だけでできているのではなく、現れる側と受け取る側の両方を含んだ世界だということです。世界はそこにただあるのではなく、何かが現れ、それが感じ取られるという関係の中で成り立っている。本節はそのように語っているように思われます。

「感じきることで、ひとつの流れが終わる」

さらに本節では、見られるものが bhogāpavargārtham、すなわち bhoga と apavarga のためにあると述べられています。

bhoga は、ただ経験することではなく、「味わうこと」「受け取ること」「享受すること」という意味をもっています。また、apavarga は、一般には「解放」と訳されますが、もともとは「そこから離れること」「抜け出すこと」「終わること」という意味合いです。

そのため bhogāpavargārtham は、単に「経験と解放のため」というよりも、「経験を味わうためのもの。そして、その味わいが完了したら、そこから離れていくもの」というように解釈できます。

たとえば感情に動きが生じたとき、それを我慢したり、抑え込んだりすると、その流れは内側にとどまり続けます。けれども、きちんと感じ取られたものは、やがてひとつの区切りを迎え、離れ、消え去っていきます。

つまり、ここでいう apavarga は、単になる「解放」でなく、滞っていたものがほどけて、消えていくプロセスを示している、と解釈できます。そうすると本節は、「見られるものの世界」は、「経験するためにあるとともに、その経験を十分に味わいきることで、その流れは終わり、消え去っていく」と語っているように思われます。

まとめると、第2章第18節は次のように語っているように思われます。

見られるものは、「現れ、はたらき、とどまる」という性質をもち、「現れてきたもの」と「それを感じ取るはたらき」とから成っている。そして、その経験が十分に感じ取られるとき、ひとつの流れは終わりへ向かう。滞っていたものは、ほどけていく。

世界は、ただ経験するためにあるのではなく、経験を味わいきることで、その流れを終え、やがて手放していくためにもある。本節は、見られるものの性質を語るとともに、そこからの解放への道筋までも語っているようにも思われます。

以上を踏まえると、第2章第18節は次のように訳すことができます。

見られるものは、「現れ」「はたらき」「とどまる」という性質をもち、「現れてきたもの」と「感じ取るはたらき」とから成っている。それは、経験を味わうために、そして、やがてその流れを終えていくためにある。



ヨーガスートラ第2章(本節までの訳)

第1節:タパス(肉体を浄化して整えること)、スヴァーディヤーヤ (知的な理解を深めること)、イーシュワラ プラニダーナ(神に委ねること)。それらの実践によりヨガを成し遂げることができる。

第2節:
その目的は、サマーディの状態に至るとともに、クレーシャ(苦悩や煩悩)を弱めていくことである。

第3節:
アヴィディヤ(無知)、アスミタ(我執)、ラーガ(執着)、ドヴェーシャ(嫌悪)、アビニヴェーシャ(生命への固執)が、クレーシャ(苦悩や煩悩)の源である。

第4節:
アヴィディヤ(無知)は、他のクレーシャ(苦悩や煩悩)のもととなる。眠りに落ちているかのようにもろく弱く、高貴なものとの繋がりが断たれている状態である。

第5節:
永遠ではないもの、不純なもの、苦しみ、自己の本質でないもの。永遠なるもの、純粋なもの、安楽、自己の本質。それらについて、誤って認識しているのがアヴィディヤ(無知)である。

第6節:
アスミタ(我執)は、「ドゥリグ(見る者、観照者)」と「ダルシャナ(見る働き、認識の作用)」を一体視してしまうことである。

第7節:
スカ(快楽)の後に残るもの(潜在印象)があり、それがラーガ(執着)となる。

第8節:
ドゥッカ(苦しみの経験)の後に残るもの(潜在的印象)があり、それがドヴェーシャ(嫌悪)となる。

第9節:
本能的なもので、賢者であっても同じように深く根付いているものがあり、それが「アビニヴェーシャ(強い執着)」である。

第10節:
それら(クレシャ)は、非物質的なものであり、手放して、根源に戻すべきものである。

第11節:
それらの働き(クレシャに由来する、繰り返される心の反応パターン )は、瞑想によって手放すべきものである 。

第12節:
クレシャによってカルマが蓄積する。それを認識しているか否かに関わらず、そこから新たな経験が生じる。

第13節:
カルマの根(クレシャを原因とする潜在的な要因 )があると、それが熟し、その結果として、生きて経験をするという状態になる。

第14節:
それらは、快または苦という経験をもたらす。心身を清らかにするものが原因であれば快いものとなり、反対であれば、苦しいものとなる。

第15節:
転変というゆらぎ(パリナーマ)、緊張という内なる熱(タパ)、残存印象という心の刻印(サンスカーラ)。それらはグナの働きにおける不均衡な歪み。しっかりと識別できる視点から見れば、すべてはまさに歪みそのものである。

第16節:
まだ顕在化していないduḥkha(不均衡な歪み)は、解消可能である。

第17節:
見るはたらきと、見られているものとの結びつきが、heya(手放すべきもの)の原因である。

第18節:
見られるものは、「現れ」「はたらき」「とどまる」という性質をもち、「現れてきたもの」と「感じ取るはたらき」とから成っている。それは、経験を味わうために、そして、やがてその流れを終えていくためにある。