*** AIによる解説 ***

原文:
द्रष्टृदृश्ययोः संयोगो हेयहेतुः॥
draṣṭṛ-dṛśyayoḥ saṃyogo heya-hetuḥ

読み方:
ドラシュトリ・ドゥルシュヤヨーホ サンヨーゴー ヘーヤヘートゥフ

英訳:
The cause of that which is to be avoided is the union of the seer and the seen.

和訳:
避けるべき苦の原因は、見るものと見られるものの結合である。

各単語の意味:
draṣṭṛ(ドラシュトリ):見るもの、観照者、知る主体。ヨーガ哲学ではプルシャ(真我)を指す。
dṛśyayoḥ(ドゥルシュヤヨーホ):見られるもの、知覚されるもの、対象となるもの。身体、心、感覚、思考、外界を含むプラクリティの側を指す。
saṃyogaḥ(サンヨーガハ):結合、結びつき、接触、一体化。
heya(ヘーヤ):避けるべきもの、取り除くべきもの。
hetuḥ(ヘートゥフ):原因、もとになるもの。

解説:
第2章第16節では、「まだ来ていない苦は避けることができる」と説かれましたが、第17節ではその苦の原因が何であるかが明かされます。

ここで言う「見るもの」とはプルシャ、すなわち純粋な観照者・真我のことであり、「見られるもの」とはプラクリティ、すなわち身体、心、感覚、思考、そして外界を含む対象世界のことです。

本来この二つは別のものであるにもかかわらず、それらが結びついているように見えることが、苦の原因であるとされています。

この「結合」は、実際に真我と対象が混ざり合うという意味ではなく、両者を取り違えてしまうことを指します。

たとえば、「身体が自分だ」「心の動きがそのまま自分だ」「感情や思考こそが私そのものだ」と考えてしまうとき、見るものと見られるものが混同されています。

この誤った同一視によって、変化するものに振り回され、快・不快、執着、恐れ、苦悩が生まれるのです。

ヨーガの実践は、この混同を解き、見るものと見られるものを正しく識別する方向へ進みます。

つまり第17節は、苦をなくすためには、真我と心身や外界とを区別して理解することが重要であると示しているのです。

*** ここまではAIによる解説。以下はそれを踏まえての解釈です ***

第2章第17節は、一般には「見る者(プルシャ)と見られるもの(プラクリティ)の結合が、避けるべき苦の原因である」と説明されます。しかし、原文を丁寧に見てみると、ここで使われているのは puruṣa や prakṛti ではなく、draṣṭṛ(見る者)とdṛśya(見られるもの)という語です。

この違いは小さくないように思われます。もし本節の中心が、二つの実体の関係そのものを説明することにあるなら、puruṣa や prakṛti という語を用いてもよかったはずです。にもかかわらず、ここではあえて「見る者」と「見られるもの」という、はたらきと関係を表す言葉が使われています。このことから、本節で語られているのは、固定した二つの存在についての教義というよりも、認識の中で起きている関係そのものではないかと考えられます。

ここで参考になるのが、第1章第4節です。そこでは、見る者は心の働きと同じ形を取ってしまうと語られていました。ここで使われているのは sārūpya という語であり、「同じ姿になる」「同じ形を帯びる」という意味合いがあります。それに対して本節ではsaṃyoga という語が使われています。こちらは「結合」「連結」を意味し、何かと何かが結びついている状態を表します。

この違いを踏まえると、第1章第4節は、見る者の側に起こる現象を語っており、第2章第17節は、その現象を生み出している構造を語っているように見えてきます。第1章第4節では、見る者が心の動きと同じ形を取ってしまう。第2章第17節では、そもそも見るはたらきと見られる内容とが結びついてしまっている。そのために、見る者は見られるものに巻き込まれてしまうのです。

たとえば、怒りが生じたとき、本来であれば「怒りがある」と見ることができるはずです。しかし実際には、「私は怒りそのものだ」と受け取ってしまうことがあります。不安や悲しみや身体の痛みについても同じです。本当はそれらは「見られている内容」であるにもかかわらず、それがそのまま「私」であるかのように受け取られてしまう。その混線が、ここでいう結びつきなのだと思われます。

また、本節の後半にある heya-hetuḥ という語も重要です。heya は第2章第10節、第11節、第16節にも現れており、一貫して「取り除かれるべきもの」「手放されるべきもの」という流れの中で使われています。したがって、ここで言われているのは、単に「悪いものの原因」ではなく、「あとで手放すことになるものを生み出している原因」という意味合いでしょう。

さらに hetu という語は、第2章第14節でも使われていました。第14節では、快や苦という経験の質を方向づける原因が語られていましたが、本節ではそれよりも一段深いところで、そうした経験の流れそのものを生み出している原因が語られているように見えます。つまり本節は、「何が快で何が苦か」という話ではなく、そもそもなぜ私たちがそうした経験の流れに巻き込まれていくのか、その根本の構造を示しているのです。

このように見てくると、第2章第16節と第17節のつながりもはっきりします。第16節では、まだ顕在化していないものは変えることができる、ということが示されていました。そして第17節では、その「まだ手放しうるもの」を生み出している原因が、見るはたらきと見られる内容との結びつきにある、と語られているのです。

以上を踏まえると、第2章第17節は次のように訳すことができます。

見るはたらきと、見られているものとの結びつきが、heya(手放すべきもの)の原因
である。


ヨーガスートラ第2章(本節までの訳)

第1節:タパス(肉体を浄化して整えること)、スヴァーディヤーヤ (知的な理解を深めること)、イーシュワラ プラニダーナ(神に委ねること)。それらの実践によりヨガを成し遂げることができる。

第2節:
その目的は、サマーディの状態に至るとともに、クレーシャ(苦悩や煩悩)を弱めていくことである。

第3節:
アヴィディヤ(無知)、アスミタ(我執)、ラーガ(執着)、ドヴェーシャ(嫌悪)、アビニヴェーシャ(生命への固執)が、クレーシャ(苦悩や煩悩)の源である。

第4節:
アヴィディヤ(無知)は、他のクレーシャ(苦悩や煩悩)のもととなる。眠りに落ちているかのようにもろく弱く、高貴なものとの繋がりが断たれている状態である。

第5節:
永遠ではないもの、不純なもの、苦しみ、自己の本質でないもの。永遠なるもの、純粋なもの、安楽、自己の本質。それらについて、誤って認識しているのがアヴィディヤ(無知)である。

第6節:
アスミタ(我執)は、「ドゥリグ(見る者、観照者)」と「ダルシャナ(見る働き、認識の作用)」を一体視してしまうことである。

第7節:
スカ(快楽)の後に残るもの(潜在印象)があり、それがラーガ(執着)となる。

第8節:
ドゥッカ(苦しみの経験)の後に残るもの(潜在的印象)があり、それがドヴェーシャ(嫌悪)となる。

第9節:
本能的なもので、賢者であっても同じように深く根付いているものがあり、それが「アビニヴェーシャ(強い執着)」である。

第10節:
それら(クレシャ)は、非物質的なものであり、手放して、根源に戻すべきものである。

第11節:
それらの働き(クレシャに由来する、繰り返される心の反応パターン )は、瞑想によって手放すべきものである 。

第12節:
クレシャによってカルマが蓄積する。それを認識しているか否かに関わらず、そこから新たな経験が生じる。

第13節:
カルマの根(クレシャを原因とする潜在的な要因 )があると、それが熟し、その結果として、生きて経験をするという状態になる。

第14節:
それらは、快または苦という経験をもたらす。心身を清らかにするものが原因であれば快いものとなり、反対であれば、苦しいものとなる。

第15節:
転変というゆらぎ(パリナーマ)、緊張という内なる熱(タパ)、残存印象という心の刻印(サンスカーラ)。それらはグナの働きにおける不均衡な歪み。しっかりと識別できる視点から見れば、すべてはまさに歪みそのものである。

第16節:
まだ顕在化していないduḥkha(不均衡な歪み)は、解消可能である。

第17節:
見るはたらきと、見られているものとの結びつきが、heya(手放すべきもの)の原因である。