
*** AIによる解説 ***
原文:
क्लेशमूलः कर्माशयो दृष्टादृष्टजन्मवेदनीयः॥
読み方:
クレーシャ・ムーラハ カルマーシャヨー ドリシュタ・アドリシュタ・ジャンマ・ヴェーデニーヤハ
和訳:
カルマの貯蔵(カルマーシャヤ)は、クレシャを根とし、見られた(現世の)生と見られていない(来世の)生の中で、その結果をもたらすものである。
各単語の意味:
क्लेशमूलः (kleśa-mūlaḥ、クレーシャ・ムーラハ):クレシャを根(mūla=根源)とする。すなわち、煩悩を起点として生じる。
कर्माशयः (karma-āśayaḥ、カルマーシャヨー):カルマ(行為)のアーシャヤ(貯蔵、蓄積)。これまでの行為が潜在印象として心の奥に蓄積されたもの。
दृष्ट (dṛṣṭa、ドリシュタ):「見られた」=現世で経験される。
अदृष्ट (adṛṣṭa、アドリシュタ):「見られていない」=来世で経験される。
जन्म (janma、ジャンマ):生まれること、生。
वेदनीयः (vedanīyaḥ、ヴェーデニーヤハ):「感受される」「経験される」「結果として現れる」こと。
解説:
この節では、ヨーガの思想の中で非常に重要な概念、カルマ(行為)とその潜在的な結果の貯蔵(karma-āśaya) が初めて明確に語られます。
パタンジャリはここで、私たちの行為(karma)は単に消えてなくなるのではなく、クレシャ(煩悩)を根にして心の中に潜在印象として蓄積されると述べています。それが「カルマーシャヤ(行為の貯蔵庫)」です。
これらの潜在的なカルマは、今の人生(dṛṣṭa-janma)で経験されるものもあれば、まだ来ていない次の生(adṛṣṭa-janma)で結果として現れるものもある、とされています。
つまりこのスートラは、「カルマとクレシャが相互に連動するサイクル」を明らかにしています。クレシャ(煩悩)によって衝動的な行為が生まれ、その行為が再び潜在印象(カルマーシャヤ)として心に沈み、次の経験(苦)を引き起こす――この連鎖が、ヨーガが断とうとする「苦の輪(duḥkha-cakra)」です。
第9〜11節とのつながり:
第9〜10節で「クレシャは微細であり、根源への回帰によって手放されるべきもの」と説かれ、
第11節で「クレシャの反復する働きは、瞑想によって静められる」と示されました。
そして第12節では、クレシャを根にもつ「カルマの貯蔵庫」という概念が登場します。
つまり、ここからヨーガ哲学は、「なぜ苦が繰り返されるのか」という因果構造――「クレシャ → カルマ → 経験 → 再びクレシャ」という連鎖を、より精密に説明していく段階に入ります。
*** ここまではAIによる解説。以下はそれを踏まえての解釈です ***

ポイント1
最初の部分「クレーシャ・ムーラハ カルマーシャヨー」を、AIは「カルマの貯蔵(カルマーシャヤ)は、クレシャを根とし」と訳しています。これはつまり、クレシャによって行為が生じ、その行為が心の奥に印象として蓄積するということであり、これがカルマの蓄積です。そのことを踏まえ、もっと平易な表現にして「クレシャによってカルマが蓄積する」と訳してもいいでしょう。
ポイント2
次の部分「ドリシュタ・アドリシュタ」を、AIは「見られた(現世の)生と見られていない(来世の)生の中で」と訳しています。しかし、もともとドリシュタやアドリシュタに、「現世・来世」という意味はありません。後世の注釈家(ヴィヤーサ)がそう解釈したため、そのような訳が広まっています。
そのような意訳的解釈をやめて、原語に忠実に読むと、この部分は「見られている、見られていない」「自覚されている、自覚されていない」あるいは「認識されている、認識されていない」という程度の意味合いです。
なお「ドリシュタ、見る」という行為は、ヨーガにおける「気づき・観照」の核心であり、ここでの「見る」は、単なる視覚ではなく、「意識による認識」を意味します。したがって、この部分は「自覚・認識されているものと、まだ自覚・認識されていないもの」という心理的な意味合いが含まれます。
ポイント3
「ドリシュタ・アドリシュタ」を「認識された、認識されていない」という意味合いで解釈すると、最後の部分「ジャンマ・ヴェーデニーヤハ」の解釈も変わってきます。
そもそも「ジャンマ」は、人として生まれることに限定した言葉ではなく、「発生」「生起」「顕現」「現れること」などを表す言葉です。そして「ヴェーデニーヤハ」は経験されることを意味しています。したがって、「ジャンマ・ヴェーデニーヤハ」を素直に解釈すると「新たなる経験が生じる」となります。つまり、「ジャンマ、生まれる」は、人としての誕生を指しているのではなく、カルマの作用が再び顕れること、つまり過去の行為が新しい形で現れることを意味していると解釈できます。
ポイント4
以上を踏まえると、本節で言わんとしていることは「クレシャによって行為が生じ、その行為が心の奥に印象として蓄積する――これがカルマの蓄積である。それらは、意識の光が届いているものもあれば、無自覚のまま働いているものもある。そして、そのいずれからも新たな経験が生じ、私たちの人生を形づくっている。」となります。
このように解釈すると、本節は輪廻や来世の説明ではなく、「今、この瞬間にも働いているカルマのメカニズム」を説明するものになります。つまり、クレシャ(煩悩)が原因となってカルマ(行為)が生まれ、そのカルマは意識されていようがいまいが作用し、その結果として新たな経験(状況・反応・苦楽)を生み出すのです。
このような視点で本節を訳すと、以下のようになります。
クレシャによってカルマが蓄積する。それを認識しているか否かに関わらず、そこから新たな経験が生じる。

ヨーガスートラ第2章(本節までの訳)
第1節:タパス(肉体を浄化して整えること)、スヴァーディヤーヤ (知的な理解を深めること)、イーシュワラ プラニダーナ(神に委ねること)。それらの実践によりヨガを成し遂げることができる。
第2節:
その目的は、サマーディの状態に至るとともに、クレーシャ(苦悩や煩悩)を弱めていくことである。
第3節:
アヴィディヤ(無知)、アスミタ(我執)、ラーガ(執着)、ドヴェーシャ(嫌悪)、アビニヴェーシャ(生命への固執)が、クレーシャ(苦悩や煩悩)の源である。
第4節:
アヴィディヤ(無知)は、他のクレーシャ(苦悩や煩悩)のもととなる。眠りに落ちているかのようにもろく弱く、高貴なものとの繋がりが断たれている状態である。
第5節:
永遠ではないもの、不純なもの、苦しみ、自己の本質でないもの。永遠なるもの、純粋なもの、安楽、自己の本質。それらについて、誤って認識しているのがアヴィディヤ(無知)である。
第6節:
アスミタ(我執)は、「ドゥリグ(見る者、観照者)」と「ダルシャナ(見る働き、認識の作用)」を一体視してしまうことである。
第7節:
スカ(快楽)の後に残るもの(潜在印象)があり、それがラーガ(執着)となる。
第8節:
ドゥッカ(苦しみの経験)の後に残るもの(潜在的印象)があり、それがドヴェーシャ(嫌悪)となる。
第9節:
本能的なもので、賢者であっても同じように深く根付いているものがあり、それが「アビニヴェーシャ(強い執着)」である。
第10節:
それら(クレシャ)は、非物質的なものであり、手放して、根源に戻すべきものである。
第11節:
それらの働き(クレシャに由来する、繰り返される心の反応パターン )は、瞑想によって手放すべきものである 。
第12節:
クレシャによってカルマが蓄積する。それを認識しているか否かに関わらず、そこから新たな経験が生じる。